江戸時代後期の書家,狂歌師,戯作者。 宝暦8年生まれ。書は明の董其昌(とう-きしょう)に傾倒。大田南畝(なんぽ)門下として狂詩集「本丁文酔」をあらわす。狂歌は大屋裏住(おおやのうらずみ)門下で本町連に属した。洒落本「狂訓彙軌本紀」がある。江戸出身。名は敬義(たかよし)。狂号は腹唐秋人(はらからのあきんど)。戯作名は島田金谷
明尊
平安時代中期の僧。 小野道風の孫。近江園城寺の智弁,慶祚らにまなぶ。長吏,大僧正にのぼり,円満院に住した。天台座主(ざす)就任をめぐって比叡(ひえい)山側と紛糾,永承3年座主となるが3日で辞任。晩年は志賀寺にはいり,志賀大僧正とよばれた。
玄証
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての真言宗の僧。号は閑観房。
藤原 信実
鎌倉前・中期の廷臣。隆信の子。左京権大夫・正四位下に至る。のち出家して寂西と号する。画・和歌を能くし、写実的な肖像画技法を父に学ぶ。また藤原定家に師事し歌人としても知られた。
源 実朝
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男[注釈 1]として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。
住吉 慶忍
鎌倉時代の絵仏師。 建長6年(1254)子の聖衆丸とともに「絵因果経」をえがいた。その奥書によれば,摂津住吉の人で,介法橋(ほっきょう)と称され,よみあやまって慶恩とされてきた。土佐広通(ひろみち)(住吉如慶)により住吉派の遠祖とされる。
夢窓疎石
南北朝時代の臨済宗の僧。伊勢の人。一山一寧・高峰顕日に師事。後醍醐天皇・足利尊氏らの篤信を受け、京都嵯峨に天竜寺を開山。天竜寺船による貿易を促し、また造園芸術を発展させた。門派は夢窓派といい、五山文学の最盛期をつくった。著「夢中問答」「臨川寺家訓」「西山夜話」「夢窓国師語録」など。正覚国師。心宗国師。普済国師。夢窓国師。
藤原 伊久
南北朝時代の画家。 乙宝寺の「乙宝寺縁起」の絵をえがいた。正五位下,加賀守。巨勢惟久(こせの これひさ)の子という。
土佐 行長
鎌倉時代の画家。 「土佐家系図」に藤原隆親(たかちか)の子とある。
豪信
鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した画家。藤原隆信の5代の孫で,為信の子。家系は似絵 の名家で豪信はその最後を飾った。彼の筆に成る国宝『花園天皇像』 (長福寺) は,暦応1年天皇 42歳の姿を写したもの。
一休 宗純
室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。
説話のモデルとして一休さんと知られる。
幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)、曇華、國景などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号である。
寂済
室町時代の画家。京都,清涼寺本『融通念仏縁起絵巻』2巻の作者の一人。おそらく永徳3 (1383) 年頃宮廷の絵所預 (えどころあずかり) に任じられ,その後応永 21 (1414) 年以前に出家して寂済と号した。俗名は不明だが同時代に名のみえる宮廷絵師藤原光益と同一人とする説がある。六角絵所の主宰者であったため通称六角寂済。
吉山 明兆
南北朝時代~室町時代初期の画僧。字は吉山,また終生東福寺の殿司役にとどまったため兆殿司と呼ばれ,同寺のため多くの仏画や頂相 を制作した。巨大な伽藍にふさわしい大作が多く『五百羅漢図』 (1386) ,『大涅槃図』 (1408) ,『達磨蝦蟇鉄拐 (だるまがまてっかい) 図』3幅,『聖一国師像』などは有名。一時代前の良全を継承する絵仏師系の画家として最後の光輝を放ったが,応永年間 (1394~1428) 以後の詩画軸全盛期には傍流となる
土佐 光重
南北朝時代の画家。 土佐行光(ゆきみつ)の子。明徳元=元中7年(1390)絵所預(えどころあずかり)となる。「畠山記」によると,その前年父とともに,河内守護畠山基国の求めにより,八尾,飯盛,竜泉の城をかいている。正五位下,越前守
土佐 光国
室町時代の画家。 従五位下,備後守。応永21年の「融通念仏縁起絵巻」(清凉寺)の制作者のひとり。寂済(じゃくさい)(藤原光益)の後継者とみられ,永享5年絵所預の任にあった。土佐を号し,剃髪後法眼となり,永春を名のる。
中尾 能阿彌
室町時代の水墨画家、茶人、連歌師、鑑定家、表具師。姓は中尾、名は真能(さねよし)。法号は真能。号は鴎斎、春鴎斎子。子に芸阿弥、孫に相阿弥がいる。 元は越前朝倉氏の家臣だったが、足利義教、義政に同朋衆として仕えて能阿弥と号し、幕府における書画等(唐物)の鑑定や管理を行い、また東山御物の制定を行った。特に水墨画に優れ阿弥派の開祖とされ、鶴図を描き義政に絶賛されたといわれる。自由に御物の名品を見ることの出来る立場を生かし、「花鳥図屏風」や「白衣観音図」のような、牧谿の図様をそのまま取り込んだ作品を残している。茶道においては、書院飾りの完成、台子飾りの方式の制定などを行い、小笠原流の礼法を参酌して今日に伝えられているような茶の点て方を考案した。『山上宗二記』では「同朋中の名人」と記されている。そのほか連歌、立花、香道にも優れ、連歌では七賢の一人に挙げられ、北野天満宮の連歌奉行も務めた。
土佐 行広
室町前期の画家。姓は藤原。宮廷絵所の絵師。応永13年土佐将監の記録が残り、土佐派を名のった最初の画人とされる。作「融通念仏縁起絵巻」など。生没年未詳。
宗眞
本阿弥光悦の門徒
土佐 行秀
土佐行広の子(一説に弟)。応永20年報恩院僧正隆源の命で称光天皇の御代始三壇法本尊醍醐寺をかく。26年正五位下,修理亮(しゅりのすけ)。同年絵所預(えどころあずかり)となる。 「融通念仏縁起絵巻」(清凉寺)の作者のひとり。
宅磨 栄賀
室町時代初期の宅磨派の絵仏師。新様の宋画様式の摂取に積極的であった宅磨派のなかで,次第に和漢融合し定型的な作風を示す。東福寺性海霊見が応永2 年に著賛した『柿本人麻呂像』 (常盤山文庫) が時代の明徴な唯一の作品。ほかに『不動明王二童子像』 (静嘉堂文庫) ,『十六羅漢像』 (頂妙寺) などが現存する。
祥啓
室町時代中期から後期にかけて活躍した画僧・禅僧。賢江祥啓(けんこうしょうけい)とも。字は賢江、号は貧楽斎。建長寺の書記役にあって、通称は啓書記。僧名は元英祥啓。雪村と並び、室町後期の関東を代表する画人である。
雪舟
室町時代に活躍した水墨画家・禅僧。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。 備中国に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。 現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立した点での功績が大きい。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。
粟田口 隆光
土佐光顕の3男。京都粟田口にすみ,それを姓とする。民部少輔(みんぶのしょう)に任じられ,のち出家し,法眼(ほうげん)。土佐派の画法を父からまなび,絵巻物,水墨画をよくした。応永21年(1414)作の「融通念仏縁起絵巻」(清凉寺)や「石山寺縁起絵巻」の絵師のひとりとされる。俗名は以盛。通称は粟田口法眼。
飯尾 宗祇
連歌師。号種玉庵・自然斉他。若くして仏門に入り中年以後は臨済宗に属したと思われる。連歌を宗砌・心敬・専順に、飛鳥井雅親らに和歌・古典を、卜部兼倶に神道の教を受けた。連歌師として名があらわれ始めた四十才頃より各地に旅して連歌界最高の栄誉をうけた。和歌・連歌の伝統を継承する正統派として円熟した技巧を駆使し、堅実な作風で浪漫的心情が一貫して悲哀・厭世の調がある。