江戸時代中期の画家。 土佐光芳(みつよし)の長男。土佐光貞の兄。延享元年絵所預(えどころあずかり)となる。寛延元年桃園天皇の大嘗会屏風を制作。名はのち光直(みつなお)。
土方 稲嶺
江戸時代中期から後期の絵師。因幡出身。名は廣邦、のち廣輔。字は子直。号は臥虎軒、虎睡軒。稲嶺の号は、地元の名所稲葉山に因んだと言う。
加藤 千蔭
1735-1808年。
江戸中期の歌人、国学者。
本姓は橘氏で、枝直の子。
号、朮園(うけらぞの)、芳宜園(はぎぞの)。
町奉行所吟味方を務めながら、賀茂真淵(かもの まぶち)に学び、村田春海(むらた はるみ)とともに江戸派の総帥とよばれた。
著「万葉集略解(りゃくげ)」、家集「うけらが花」など。
皆川 淇園
江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)、甥に国学者富士谷御杖がいる。淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある。生まれは京都。
柴野 栗山
江戸時代の儒学者・文人である。名は邦彦であり、字は彦輔である。讃岐国で生まれた。寛政の三博士の一人として知られる。
木村 蒹葭堂
江戸時代中期の日本の文人・文人画家・本草学者・蔵書家・コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれる。名は孔龔(孔恭)、幼名は太吉郎(多吉郎)、字を世粛、号は蒹葭堂の他に、巽斎(遜斎)、通称は坪井屋(壺井屋)吉右衛門。 蒹葭とは葦のことであり、「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことである。庭に井戸を掘ったときに葦が出て来たことを愛でてそのように名付けたもので、後にこの書斎の名をもって彼を呼ぶようになった。
篠崎 三島
1737年-1813年。
江戸後期の儒者。大坂生。
名は応道、字は安道、通称は長兵衛。
片山北海に学ぶ。
古註学派。
著書に『都洲摘草』『浪華風雅』等がある。
土佐 光貞
日本の江戸時代中期から後期に活躍した土佐派の絵師。土佐光芳の次男で、兄は土佐光淳。幼名は茂松(丸)。字は士享。初め内匠と名乗り、別号は廷蘭。従四位下。左近衛将監、土佐守。
林 子平
1738-1793年。
江戸時代後期の経世論家。
高山彦九郎、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」の一人。諱は友直。のちに六無齋主人と号した。
森 蘭斎
江戸時代中期・後期の画家。熊斐に就いて南蘋派の画法を修め彩色花鳥画を画いた。名は文祥、字を子禎。蘭斎のほかに九江・鳴鶴などと号した。越後頸城郡新井の人。
井上 士朗
1742-1812年。
江戸中期の俳人、医者。
尾張の人。名は正春。
別号、枇杷園(びわえん)。
俳諧を加藤暁台に学び、国学や絵画にも通じた。
著「枇杷園七部集」「枇杷園随筆」など。
亀井 南冥
江戸時代の儒学者で、医者、教育者、漢詩人。筑前国姪浜に生れる。諱は魯、字は道載、通称は主水、南冥はその号である。亀門学の祖。
村瀬 栲亭
江戸時代後期の漢学者・儒学者。姓は源、名は之煕、字は君績、通称は掃部、嘉右衛門。栲亭は号。一時期、儒者として秋田藩藩侯の侍読、のちに総奉行を務めた。
岡田 米山人
江戸時代後期の大坂を代表する文人画家。岡田半江はその子である。 通称を岡田彦兵衛、あるいは米屋彦兵衛(よねやひこべえ)と称し一説には彦吉とも称したという。 名を国、字は士彦(しげん)、画号を米山人、米翁といった。
望月 玉仙
江戸時代中期の画家。 延享元年生まれ。望月玉蟾(ぎょくせん)の子。 父の画法をつぐ。はじめ玉蟾,また誠斎と号し,父と区別して玉蟾誠斎とよばれた。 名は真,重祐。
立原 翠軒
江戸時代中期から後期の水戸藩士。学者として5代藩主徳川宗翰、6代治保の2代にわたって仕える。本姓は平氏。家系は常陸平氏大掾氏の一門・鹿島氏の庶流といい、鹿島成幹の子・立原五郎久幹を祖とする立原氏。仮名は甚五郎。諱は万。字は伯時。号は東里。致仕後に翠軒と号する。父は水戸藩彰考館管庫・立原蘭渓(甚蔵)。
浦上 玉堂
江戸時代の文人画家、備中鴨方藩士。 諱は孝弼(たかすけ)、字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門。 35歳の時、「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七弦琴を得て「玉堂琴士」と号した。 父は宗純。
尾藤 二洲
1745-1813年
江戸時代後期の朱子学派の儒学者。
寛政の三助の一人。
名は孝肇,字は志尹,通称は良佐,号は二州,約山、流水。
桑山 玉洲
江戸時代中期の文人画家・美術評論家。祇園南海・野呂介石とともに紀州三大南画家と称される。 名は政近をはじめに嗣幹、嗣粲、嗣燦と改め、字を白瑞、子戔、明夫、通称は茂兵次。号は玉洲の他に明光居士、珂雪漁人、玉津嶋漁人、蘆泮、また堂号は鶴跡園、珂雪堂、聴雨堂、勧耕舎など。
頼 春水
江戸後期の儒者。安芸生。山陽の父、春風・杏坪の兄。名は惟完、字は千秋・伯栗、別号に霞崖・拙栄・和亭等。大坂に遊学したのち広島の藩学問所創立にあたり、宋学中心の教をたて幕府の新学統一に先鞭をつける。
野呂 介石
1747-1828年。 江戸後期の南画家。紀州生。 名は隆。字は隆年、松齢。 別号に矮梅、四碧斎、混斎、十友窩等など。 後漢の第五倫を慕い第五隆とも称した。 那智瀑布図を得意とし、また竹石にも妙を得た。
高山 彦九郎
江戸中期の勤王家。 上野生。名は正之、字は仲縄、彦九郎は通称。 13才頃『太平記』を読み、発憤して志をたてる。のち上京し河野恕斎に学ぶ。志士と交わり、中山愛親の知遇も得た。諸国を歴遊し勤王の大義を唱える。 寛政三奇士の一人。
駒井 源琦
江戸時代中期の絵師。姓は駒井、本姓は源、名は琦で、駒井源琦と表記されることも多い。字は子韞(しおん)、通称は幸之助。 円山応挙の高弟で、長沢芦雪と共に二哲と評された。芦雪とは対照的に師の画風を最も忠実に継承し、特に清楚な唐美人図で知られる。
森 狙仙
江戸後期の画家。長崎生。名は守象、字は叔牙、初号は祖仙、のち狙仙と改める。大坂で狩野派の山本如春斎に学び、また円山応挙の写生主義の影響も受けて一家を成した。動物、特に猿と鹿の絵を得意とした。