江戸時代中期-後期の画家。 延享4年生まれ。江戸の人。董九如(とうきゅうじょ),谷文晁(たにぶんちょう)にまなび,山水花鳥を得意とした。。名は冕。字は子章。通称は連江,蓮。
遠藤 広古
寛政元年江戸生まれ。松山藩絵師。本姓は梅原、のちに遠藤と改めた。幼名は広起。別号に蝸盧がある。住吉派四代・住吉広守について画法を学び、寛政年間に松山藩に招かれ藩絵師となった。それまで藩の御用絵師は狩野派系の画人が独占していたが、それに伝統的なやまと絵の住吉派の画人が加わることとなった。文政7年、77歳で死去した。
菅 茶山
江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村の出身。
夏目 成美
俳人。名は包嘉、通称井筒屋八郎右衛門、字は万齢、号は修業庵・随斎・卍齢坊・四山道人等。 札差夏目八郎右衛門宗成の五男。江戸浅草生。父に俳諧を学び、独学で江戸四大家の一人と称されるに至る。 俳風は清雅。また文章にも通じた。著書に『一夜流行』『浅草』等がある。
鏑木 梅渓
江戸時代中期から後期の長崎派の画家。 名は世胤・世融、字は君冑。通称は弥十郎。長崎の生まれ。本姓が平氏であることから平世胤とも名乗った。
十時 梅厓
江戸時代中期の南画家、儒学者で、書や篆刻も能くした。儒官として伊勢長島藩に仕えた。大坂生まれ。 姓は十時、名を業のちに賜(しゃく)、字は季長のちに子羽とした。号は梅厓の他に顧亭、清夢軒、天臨閣、通称 半蔵と称した。
大田 南畝
江戸時代後期の文人。本名,覃 (ふかし) 。通称,直次郎。号,蜀山人。狂歌名,四方赤良 (よものあから) 。戯作名,山手馬鹿人 (ばかひと) 。狂詩名,寝惚 (ねぼけ) 先生。幕臣,御徒役。内山賀邸 (椿軒) に国学と和歌を,松崎観海に漢詩文を学んだが,19歳で平賀源内に認められ,狂詩文『寝惚先生文集』 (1767) を刊行,以後狂詩文で名を得た。一方,唐衣 (からごろも) 橘洲の狂歌会に加わって頭角を現し山手連を形成。狂歌会の第一人者となり,『万載狂歌集』『徳和歌後万載集』を編み,当時の狂歌の一大集成をなした。
鈴木 芙蓉
江戸後期の画家。信濃生。名は雍、字は文煕、通称新兵衛、別号に老蓮。画を宋紫石に学び、阿波国蜂須賀侯に画師として仕える。また詩文にも長じ、皆川淇園・亀田鵬斎・大田蜀山人など多くの詩人と交流があった。
岸駒
江戸時代後期の画家。岸派の祖。加賀金沢の商家に出生。本姓は佐伯,のち岸,名は矩 (のり) ,のち駒。字は賁然。号は蘭斎ほか。幼少より画事を好み上洛。寛政2 年禁裡造営の際,円山応挙らと障壁画の御用をつとめ,のち朝廷に仕え,文化6 年息子の岱 (たい) と金沢城の障壁画を描く。晩年は洛北岩倉に天開窟を構えて隠棲。
渡辺 玄対
江戸時代中期-後期の画家。 寛延2年生まれ。渡辺湊水(そうすい)の養子。 江戸の人。中山高陽にまなび,山水,花鳥を得意とした。谷文晁の師。 本姓は内田。名は瑛。字は廷輝。 通称は又蔵。別号に松堂。
市河 寛斎
江戸時代の儒学者で漢詩人。名は世寧、字は子静、嘉祥、号は寛斎、半江、江湖詩老。江戸生まれとも上野国出身ともいう。父は書家の市河蘭台。幕末の三筆・市河米庵は長子。画家の鏑木雲潭は次男。養父は多胡碑を世に紹介した高橋道斎。 林家に学ぶが、1790年に寛政異学の禁を批判したため昌平黌を追われ、1791年から1811年まで富山藩藩校広徳館の教授となった。また掛川藩世子の侍講も務めた
古賀 精里
江戸時代中期の儒学者。名は樸、字は淳風、通称は弥助。子に穀堂、侗庵、孫に謹一郎(茶渓)が居る。佐賀藩士の子として生まれ、京都に遊学して横井小車に朱子学を、西依成斎に山崎闇斎の学を学ぶ。大坂に塾を開き尾藤二洲や頼春水らと親しく交わる。帰藩して藩主・鍋島治茂に仕え、1781年に藩校・弘道館が設立されると教授となり、学規と学則を定めてその基礎を確立した。
原 在中
江戸時代後期の絵師。名は致遠、字は子重。在中は号で、別号は臥遊。原派の祖。
佐竹 蓬平
江戸中・後期の画家。信濃生。名は正夷、字は子道・叔規、通称佐蔵、別号に亀文石・藍泉等。寒山禅師に漢籍・書を学び、江戸で宗紫石、京都で池大雅に師事する。のち長崎へ行き、南宋画を究め、熊本で村井琴山・高本紫溟、博多で亀井南冥と相識る。また差くらい焦雨と親交があった。山水・人物を能くすし、篆刻に長じた。文化4年(1807)歿、58才。
広瀬 臺山
江戸時代中期後期の文人画家。 初名を惟馨としたが家臣となって藩主の号に近いことを避けて清風に改める。同じく字も徳卿から穆甫とした。通称を周蔵・雲大夫。臺山は号、別号に白雲窩・書画斎など。津山藩藩士。大坂に生まれる。
玉潾
江戸時代中期-後期の画僧。 近江の人。 京都永観堂の画僧玉翁(ぎょくおう)に墨竹をまなぶ。公卿(くぎょう)や名門の人々とまじわって画名をあげ,茶道,華道,蹴鞠(けまり)の道もきわめたという。 俗姓は馬場。名は正邃。法号は曇空。別号に墨君堂。
亀田 鵬斎
江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ。 鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興(おこる)。字は国南、公龍、穉龍(ちりゅう)、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。
山本 北山
江戸時代中期の儒学者(折衷学派)である。 名は信有、字を天禧、通称 喜六、憙六、北山は号、別号に孝経楼主人、学半堂逸士、奚疑翁、竹堤隠逸などがある。
松村 月渓
1752-1811年。 江戸後期の画家、俳人。京都の人。 名は豊昌。画姓を呉、画名を春(しゅん)とし、呉春と称した。 四条派の祖。 与謝蕪村に俳諧と絵を学び、円山応挙と交流して独自の画風を確立。 両者を折衷して詩趣に富む花鳥画・風景画を描いた。
雲室
江戸後期の儒者・画僧。江戸光明寺二十六世住職。信濃生。名は鴻漸、のち了軌、字は元儀・公範、別号に証範・石窓・小拳子・大洲上人等。宇佐美子迪に儒学、市河寛斎に詩を学ぶ。また、谷文晁・伊孚九に画を学び、山水・人物を能くする。柏木如亭らと詩社小不朽吟社を結成し、詩画壇の長老として活躍した。文政10年(1827)寂、75才。
頼 春風
江戸後期の学者。安芸竹原生。春水の弟。名は惟彊、字は千齢、通称を松三郎。大坂の古林見宜の塾で医術を学び、尾藤二洲とも親しく交友した。帰郷後医者を開業し、藩医に推される。また春風館の建設、竹原書院を創立に尽力するなど竹原の文化隆盛に貢献した。
住吉 廣行
江戸時代中期から後期に活躍した大和絵の流れをくむ住吉派の絵師。通称は、住吉家当主が代々名乗った内記。号は景金園。住吉派4代住吉廣守の妾腹の3男とされるが、実際は廣守の高弟・板谷桂舟(慶舟)の長男とも言われる。住吉廣守の養子となって住吉家を継ぎ、住吉派を率いる5代当主として、1781年(天明元年)に江戸幕府の御用絵師となった
加茂 季鷹
江戸後期の国学者・歌人。京都の人。本姓は山本。号、雲錦。上賀茂神社の神官。著「万葉集類句」など。
増山 正賢
江戸時代中期から後期の大名。伊勢長島藩第5代藩主。長島藩増山家6代。文人大名として知られ、多数の書画を画いている。 幼名は千之丞、勇之丞。 風雅を愛でた文人大名としては、雪斎の号でよく知られる。書は趙陶斎から唐様を学び、画は木村蒹葭堂を師とした。南蘋派の精緻な画風は大名の余技とは思えぬほど優れており、田能村竹田などは気韻生動があるとして絶賛している。花鳥画を得意とし、特に虫類写生図譜『虫豸帖(ちゅうちじょう)』は本草学的にも貴重な資料となっている。また文人画風の山水図も画いた。