江戸時代の絵師。円山応挙の高弟。長沢蘆雪、長澤蘆雪とも表記される。名は、政勝、魚。字は氷計、引裾。通称、主計。芦雪の他、別号に千洲漁者、千緝なども用いた。円山応挙の弟子で、師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人。
石川 雅望
1754-1830年。 江戸後期の国文学者。江戸生。 字は子相、雅望は名、号は六樹園、別号に五老斎、逆旅主人、狂名に宿屋飯盛。 独学で和漢の学を修め、歌学者・狂歌師として有名。 狂歌は大田蜀山人の門。
東 東洋
江戸時代中期から後期の絵師。幼名は俊太郎、のち儀蔵。姓・氏は東、名・通称は洋。よって本来は単に「東洋」とするべきだが、本項目では一般的な表記である「東東洋」を採用している。字は大洋。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。 仙台藩御用絵師を勤めた近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。
中野 龍田
江戸後期の儒者。尾張生。名は煥、字は季文、通称を煥三郎・新吾、別号に龍閑。はじめ兄桑名藩儒春洞に従って桑名に出、のち京に出て硯儒の名を得る。岡田新川にも従学し、十時梅厓と交わった。詩書画を能くする。文化8年(1811)歿、56才。
本居 大平
1756-1833年。
江戸後期の国学者。
伊勢松坂の人。
号、藤垣内(ふじのかきつ)。
宣長に入門し、のち、その養子となる。
紀州侯に仕え、宣長の学問を継承し、普及に努めた。
著「古学要」「神楽歌新釈」「玉鉾百首解」など。
大岡 雲峰
江戸時代の旗本、文人画家。 名は成寛、通称次兵衛。字は公栗。雲峰と号す。江戸の生まれで筑後柳河藩士牛田忠光の子として生まれる。のちに旗本大岡助誥の養子となり、天明8年(1788年)24歳のとき家督を継ぐ。寛政3年(1791年)には表右筆に任じられる。 絵では鈴木芙蓉の高弟で、のちにふたつ年上の谷文晁の門人となった。山水画・花鳥画を得意とし、二宮尊徳とその娘の画の師にもなった。四谷大番町に住み、画風を南蘋派に転じると四谷南蘋と称され、文化年間には文晁や酒井抱一などと並称された
頼 杏坪
江戸時代の儒学者、広島藩士。諱は惟柔(ただなご)、字は千祺(せんき)・季立、号は春草堂、通称は万四郎、別号に春草、杏翁。
長町 竹石
江戸後期の画家。讃岐生。名は長・張、竹石は号。建部凌岱の門に学び、沈南蘋の画風を慕い、一家を成す。山水画を能くする。釧雲泉・大窪詩仏等と親交する。野呂介石・僧愛石と共に三石と称された。
鈴木 道彦
江戸後期の俳人。名は由之。別名,三千彦,金令舎ほか。仙台の人。代々医者の家に生まれる。少年時代から俳諧に親しみ,加舎白雄が奥羽を行脚した際,門人となる。白雄没後,江戸に出て医を業とするかたわら,建部巣兆,夏目成美,井上士朗らと親交し,化政期江戸俳壇において最大の勢力を誇った。『むくてき』(1798)で与謝蕪村ら天明七名家を酷評する自信を見せたが,晩年はその勢力も衰え,白川芝山著の『高館俳軍記』(1818?)で論難された。
良寛
江戸後期の僧・歌人。越後出雲崎生。光照寺玄乗に従い得度、大愚良寛と称する。のち備中玉島円通寺国仙の法を嗣ぎ、以来二十数年間諸国を行脚し、奇行に富んだ飄逸の生活を送る。万葉風の和歌及び書風は天衣無縫で高い評価を得ている。
平山 行蔵
日本の江戸時代後期の幕臣で兵法家。剣術流派として講武実用流を称した。間宮林蔵、近藤重蔵とともに「文政の三蔵」と呼ばれる。名は潜。字は子龍。号は兵原、兵庵、潜軒、練武堂、運籌真人。
釧 雲泉
江戸時代後期の南画家である。旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画人として知られる。 号の雲泉は雲仙岳に因んだ。名を就(じゅ)、字を仲孚(ちゅうふ)、通称文平、別号に、魯堂(ろどう)、岱就(たいしゅう)、岱岳(たいがく)、六石(りくせき)、磊落居士(らいらくこじ)などがある。
白川 芝山
日本の江戸時代後期の南画家、書家。名を景皓、通称は芳介。号は芝山、大観堂や東山外史。
春木 南湖
江戸中・後期の南画家。江戸生。姓は結城、名は鯤、字は子魚、通称門弥、別号に幽石・烟霞釣叟。山水・花卉を能くし谷文晁と並称された。京坂・長崎を遊歴し、木村蒹葭堂とも交わる。増山雪斎侯に仕える。
山口 素絢
江戸時代中期から後期の円山派の絵師。円山応挙の弟子で、応門十哲の一人。 姓は橘、通称は貫次郎、武次郎。山斎と号す。字は伯陵、後に伯後。京都で、呉服商の次男として生まれる。
頼 梅颸
春水の妻、山陽の母。名は静子。和歌を小沢蘆庵、菅沼斐雄に学ぶ。天保14年(1843)歿、84才。
板谷 広長
江戸時代中期-後期の画家。 宝暦10年生まれ。板谷慶舟の次男。住吉広行の弟。板谷広隆の父。住吉派板谷家の2代。父のあとをつぎ幕府御用絵師をつとめた。住吉広長名の落款がおおい。文化11年4月17日死去。55歳。号は桂意,慶意。
林 閬苑
江戸時代中期の絵師。 名は新・又新、字は日新、号は閬苑のほかに章齢・蟠龍洞・筆飛将軍など。通称を秋蔵・閬蔵。大坂の人。 幼少より画を好み、長じて池大雅の高弟・福原五岳に師事する。このときの同門・黒田綾山と画友となる。東東洋や木村蒹葭堂、維明周奎などと交友。安永2年(1773年)から4年間、維明に請われて京都相国寺にある狩野孝信の障屏画修復に携わり、寺院に収蔵される名画を実見し研究。
狩野 洞春
江戸後期の画家。駿河台狩野家三世元仙方信の子。名は美信、通称は三四郎。幕命により朝鮮国王に贈る屏風を描いた。式部卿法眼に叙せられた。
葛飾 北斎
江戸後期の浮世絵師。江戸生。 幼名は時太郎、のち鉄蔵、春朗・宗理等三十余の別号がある。 浮世絵・狩野派・土佐派の画法を学び、司馬江漢などの洋風銅版画にも関心を寄せるなど、破天荒な修業生活を送る。
建部 巣兆
江戸時代中後期の俳人、絵師。実姓は山本、後に藤沢、諱は英親(ひでちか)、通称は平右衛門、字は族父。 倭絵師を自称し、父竜斎の知る与謝蕪村の俳画を指向して江戸蕪村と渾名された。夏目成美、鈴木道彦と共に三大俳画家と称され、幕末から明治にかけての画人伝の類では一定の評価を受けている。俳諧では化政期を代表する俳人の1人で、松尾芭蕉も欽慕し、足立区立郷土博物館所蔵「松尾芭蕉像」に「蕉下希子」、『寅歳関屋帖』に「武陵蕉門」と名乗る。
成田 蒼虬
江戸時代後期の俳人。 宝暦11年生まれ。もと金沢藩士。高桑闌更(らんこう)門の上田馬来にまなぶ。のち京都にいき闌更に師事し,芭蕉堂後継者となる。全国をめぐりあるき天保俳壇の重鎮として活躍。天保13年3月13日死去。82歳。加賀(石川県)出身。名は利定。通称は彦助,久左衛門。別号に槐庵,南無庵,対塔庵。句集に「蒼虬翁句集」など。
山東 京伝
江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。浮世絵師としては北尾政演と号し、葎斎、北尾葎斎政演、北尾京伝まさのぶ、山東政演とも号して寛政元年まで活動した。
横井 金谷
江戸後期の画家。近江大津生。名は妙憧。別号に蝙蝠道人。京都に出て与謝蕪村に画を学び、のち名古屋に住む。画風は蕪村に似て、山水・人物を能くする