江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵。狂歌名は、尻焼猿人。屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている
岡 熊嶽
江戸時代中期・後期の大坂で活躍した文人画家。 名は嬰または文暉、字は少年または世昌、号は熊嶽・熊岳・餘香堂など。通称を勝之助。
柏木 如亭
江戸時代の漢詩人である。 はじめ、名は謙、字は益夫、通称は門作といった。のち、名は昶、字は永日とあらためる。号ははじめ舒亭と名乗り、後に如亭とする。
谷 文晁
1763-1841年。 江戸後期の画家。江戸の人。 名は正安。通称、文五郎。別号、写山楼・画学斎など。広く和漢洋の画法を学び、独自の南画で一家をなした。また、松平定信の愛顧を受けて西洋画の遠近法・陰影法を取り入れた「公余探勝図巻」を描いた。
秦 星池
江戸後期の書家。江戸の人。名は其馨、字は子馨、別号に菊如斎。はじめ松会平陵に師事し孫過庭を摸す。のち長崎に遊び来舶清人胡兆新に書法を学んだ。また楷・行書も能くした。
片桐 蘭石
江戸後期の画家。江戸生。片桐宗幽の次男、宗古の弟。名は隠、字は処翁、通称は桐隠、別号を伯然叟・日々庵。初め狩野栄川院に学び、のち渡辺玄対の門に入り人物画を能くした。雲室・広瀬台山と交わり、門下に荒木寛快らがいる。和歌・茶事にも秀でた。文政7年(1824)歿、61才。
小林 一茶
1763年-1828年
日本の俳人
名は小林弥太郎、一茶とは俳号である。
別号は圯橋、菊明、新羅坊、亜堂。
庵号は二六庵、俳諧寺。
高 遊外
江戸中期の黄檗宗の僧。肥前生。諱は元昭、道号を月海、高遊外は号。佐賀竜津寺の道竜について出家。のち僧籍をはなれ、京都に上り、煎茶を商って生活し、売茶翁と称した。池大雅・浦上玉堂ら文人と親交し、煎茶道の祖といわれる。晩年は岡崎に棲居した。
北尾 政美
江戸時代中期の浮世絵師。狩野派に転じた後の鍬形蕙斎(くわがた けいさい)の名でも知られる。今日ではややマイナーな絵師であるが、江戸時代には俗に、「北斎嫌いの蕙斎好き」という言葉ができるほど評価された絵師である。
葛西 因是
江戸時代後期の儒者。 明和元年生まれ。江戸で平沢旭山(きょくざん)にまなぶ。ついで林家の門にはいり,昌平黌(しょうへいこう)でまなぶ。 詩文にすぐれ,その著作は梁川(やながわ)星巌に影響をあたえた。 大坂出身。名は質。 字は休文。通称は健蔵。 著作に「通俗唐詩解」など。
土佐 光時
江戸後期の土佐派の画家。字は子中、幼名は長松丸、南澗と号する。光淳の男。従四位下に叙せられ、左近将監・伯耆守となる。父の業を嗣いで朝廷の絵師となり、大嘗会悠紀主基の屏風、諸殿の障子を画く。
大田 錦城
江戸時代中期の儒学者。名は元貞、字は公幹、通称は才佐。他の号に老人・春草翁・柳橋釣叟・矢倉潜夫がある。加賀大聖寺の医師・本草学者である大田玄覚の子、母は樫田氏。姓の「大田」と号の「多稼」は『詩経』の「大田章」に典拠があるという。
中井 藍江
江戸時代中期の大坂の絵師。蔀関月の門人。大坂の人。名は直、または眞。通称は養清、養三あるいは養蔵。字は養三、子養、伯養。藍江、師古と号す。銭橋南、後に伏見町心斎橋東に住んでいた。関月に浮世絵を学び、さらに牧谿や李龍眼などを独学、四条派の写生味を加えた山水図、人物図に優れた手腕を発揮し、大坂画壇に一家を成した。
浜田 杏堂
江戸時代中期後期の画家・漢方医。 本姓は名和氏。名は世憲、字は子徴・子絢、号は杏堂・痴仙。通称を希庵という。大坂の人。
円山 応瑞
江戸時代後期の絵師。円山応挙の長男で、円山派の2代目。姓は源。字は儀鳳。通称は卯三郎、右近、応挙死後は父と同じ主水を襲名する。号は怡真堂。
大窪 詩仏
江戸後期の漢詩人。常陸生。名は行、字は天民、別号に痩梅・詩聖堂等。山本北山の奚疑塾に学び、市河寛斎・柏木如亭・菊池五山と共に江戸の四詩家と称せられ、諸州を巡って頼山陽を訪ねる。また草書・墨竹画を能くし、谷文晁と交わる。
青木 木米
1767-1833年。 江戸後期の陶工、南画家。京都の人。 後年、聾米(ろうべい)と号す。 煎茶器にすぐれ、交趾や染付などを得意とした。 通称は八十八、佐兵衛。別号に九九鱗,青来,古器観,聾米など。 屋号は木屋。
渡辺 南岳
江戸時代後期の画家。 明和4年生まれ。円山応挙門十哲のひとり。美人画を得意とし,尾形光琳(こうりん)の技法もとりいれた。後年江戸にでて円山派の画風をつたえ,谷文晁(ぶんちょう),酒井抱一(ほういつ)らと交遊。門人に大西椿年(ちんねん)ら。文化10年1月4日死去。47歳。京都出身。名は巌。字(あざな)は維石。通称は猪三郎,小左衛門。作品に「四季草花図巻」(東京芸大蔵)など。
田中 訥言
江戸後期の画家。復古大和絵派の祖。京都生(一説に名古屋生)。名は痴、字は虎頭、別号に大孝斎・痴翁・過不及子等。画を石田幽汀・土佐光貞に学ぶが、自ら大和絵の古典を研究してその復興を志した。浮田一惠・渡辺清らの門下を育てる。文政6年(1823)歿、57才。
長沢 蘆洲
江戸時代後期の画家。 明和4年生まれ。丹波の人。円山(まるやま)派の長沢蘆雪(ろせつ)の養子。蘆雪にまなび,人物花鳥の絵をよくした。弘化4年10月29日死去。81歳。名は鱗。字は呑江。別号に南暁。
鶴田 卓池
三河国額田郡岡崎菅生村出身の俳人。号は青々処(せいせいしょ)、藍叟(らんそう)など。桜井梅室、成田蒼虬、田川鳳朗とともに「天保の四老人」のひとりとされている。三河地方の俳壇の中心的存在だった。
香川 景樹
江戸時代後期の歌人。父は鳥取藩藩士荒井小三次。初名は、純徳・景徳。通称は銀之助・真十郎・式部・長門介。号は桂園(けいえん)・東塢亭(とううてい)・梅月堂・観鶩亭(かんぼくてい)・臨淵社・万水楼・一月楼。出仕した徳大寺家では「景樹」を「かげしげ」と呼んでいたが、景樹自身は自身の署名で「かげき」の読みを使っており、こちらの呼称が一般に通用している。
蒲生 君平
江戸時代後期の儒学者。天皇陵を踏査して『山陵志』を著した尊王論者、海防論者としても知られる。同時代の仙台藩の林子平や上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は「優れた」という意味)。赤貧と波乱の人生を送りながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵。
菊池 五山
1769-1849年。
江戸後期の漢詩人。讚岐生。
名は桐孫、字は無絃、通称は佐太夫。
別号に娯庵、小釣舎等。
後藤芝山、柴野栗山、市河寛斎の門で儒学を学ぶ。
画の谷文晁、書の亀田鵬斎と共に、芸苑の三絶と称された。