江戸時代後期の俳人。成田蒼虬、田川鳳朗と共に天保の三大家に数えられる。前職は加賀藩研師。上田馬来に俳諧を学び、秋槐庵4世を襲名、京都、大坂、江戸、金沢を渡り歩きながら活動した。
亀岡 規礼
江戸時代後期の画家。 明和7年生まれ。京都の人。円山応挙(まるやま-おうきょ)の門人山本守礼(もりひろ)の養子となり,のち守礼の実家亀岡の姓をつぐ。応挙と養父にまなび,花鳥・山水画にたくみであった。天保(てんぽう)6年8月29日死去。66歳。本姓は笹井。名は光茂。字(あざな)は子恭。通称は喜十郎。
青木 夙夜
江戸後期の画家。京都生。名は俊明、号を士風・春塘・八岳、通称は荘右衛門。韓国余章王の後裔と自称し、余夙夜と称した。池大雅に学び、大雅歿後は京都の大雅堂に住して二世大雅堂と称する。細密な描写の画風が多く、山水・人物画を能くした。
佐久間 草偃
江戸時代中期-後期の画家。 京都の人。蒔絵師の家に生まれる。はじめ土佐派,のち四条派の松村月渓にまなぶ。山水・花鳥画を得意とし,のち法橋(ほっきょう)となった。文化11年10月2日死去。名は顕。字は叔徳。別号に富春館。
俵屋 宗理
江戸の生まれ。通称は元知。柳々居、百琳、百琳斎などと号した。始めは住吉広守に師事したが、後に尾形光琳の画風を慕い、光琳と同じ青々の号を使用する。その後、俵屋宗達に憧れて俵屋宗理を称した。光琳の画風を簡潔にした画風を使用しており、酒井抱一に先立つ琳派の絵師として活躍、花鳥画を得意とした。宝暦8年には俳諧書『世諺拾遺』の挿絵を描いている。 天明2年に没したともいわれるが未詳。 弟子の葛飾北斎が2代目宗理を称し、孫弟子の菱川宗理が3代目宗理を称した。
松崎 慊堂
江戸後期の儒者。程朱学派。掛川藩儒臣。肥後生。名は密、のち復、字は明復、通称を退蔵、慊堂は号、別号に当帰山人・木倉等。昌平黌出身。林述斎に学ぶ。
佐藤 一斎
1772-1859年
美濃国岩村藩出身の著名な儒学者であり字を大道。
諱は担。通称を捨蔵。
号は一斎のほか、愛日楼、老吾軒がある。
佐藤信由の次男として、江戸浜町の岩村藩邸下屋敷内で生まれた。
生家は佐藤方政の子孫の系と伝えられ代々藩の家老を務める家柄であった。
儒学の大成者として公に認められ、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。
雲華 大含
江戸後期の浄土真宗大谷派の学僧。豊後生。名は末弘・大倉、別号に鴻雲・染香人等。京都に出て擬講・嗣講に進み、第九代講師に昇任。在京中七条枳殻邸の東に住したので枳東園とも号し、講学の余暇に頼山陽・田能村竹田・貫名菘翁らと交わり、詩文・書画を楽しむ。嘉永3年(1850)寂、78才。
岡本 豊彦
江戸時代後期の画家。名は豊彦。字は子彦。号は葒村・丹岳・鯉嶠・澄神。通称は主馬。
丹羽 盤桓子
江戸時代後期の書家、学者。名は勗、字は子勉、通称は嘉六。晩年は覚非道人と号した。 尾張藩右筆を務め、細楷を得意とした。 号は易経「盤桓すと雖も、志は正しきを行ふ也。」に拠る
大西 圭斎
江戸時代後期の南画家。 名は允、字を叔明、もしくは名は弘、字を毅卿。 号は圭斎・幽渓・小痴道人・一簑烟客・再生翁など。 通称を又一。江戸の生まれ。
谷口 月窓
1774-1865年。 幕末の画家。伊勢の人。 名は世達、字は孟泉。 月窓は号、別号は痴絶庵。 俳人の谷口鶏口(けいこう)の娘婿。
西村 楠亭
江戸時代後期の画家。 安永4年生まれ。京都の人。円山応挙(まるやまおうきょ)の門人。肉筆風俗画をおおくえがいた。画集に「楠亭画譜」がある。名は予章。字は子風。
岡田 閑林
江戸後期の画家。江戸生。名は武功、字は子豊、閑林は号。また一説に名は錬、字は石補、号は梯蔭。画を谷文晁に学び、花鳥を能くした。嘉永2年(1849)歿、75才。
狩谷 棭斎
江戸時代後期の考証学者(今日の書誌学・文献学)である。名は望之、字は卿雲、通称は津軽屋三右衛門(11代目)、別号を求古楼。戒名は常関院実事求是居士。
鈴木 南嶺
江戸時代後期の画家。 安永4年生まれ。江戸の人。渡辺南岳らにまなび,江戸円山派の画家として活躍。のち丹後(京都府)田辺藩主牧野家につかえた。名は順。字は子信。通称は猪三郎。別号に観水軒。作品に「あさくさぐさ」など。
清水 浜臣
江戸時代後期の医師、歌人、国学者。通称は玄長。号は泊洦舎、月齋など。姓は藤原。子に清水光房。
喜多 武清
江戸時代後期の画家。 安永5年生まれ。江戸の人。谷文晁(ぶんちょう)にまなび,花鳥画,人物画を得意とする。読み本の挿絵,美人画などもえがき,古画の鑑定,模写もおこなった。作品に山東京伝の「優曇華物語」の挿絵,画集に「扇面画譜」など。字は子慎。通称は栄之助。別号に可庵,五清堂。
中林 竹洞
江戸時代後期の文人画家。幕末における文人画の理論的指導者、尊王家として知られる。尾張国の生まれ。 中林竹洞画・頼山陽賛「山水図」1825年 名は成昌、字を伯明、通称大助。竹洞は画号。別号に融斎・冲澹・大原庵・東山隠士、痴翁などがある。
平田 篤胤
江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。出羽国久保田藩(現在の秋田県秋田市)出身。成人後、備中松山藩士の兵学者平田篤穏の養子となる。幼名を正吉、通称を半兵衛。元服してからは胤行、享和年間以降は篤胤と称した。号は気吹舎(いぶきのや)、家號を真菅乃屋(ますげのや)。大角(だいかく)または大壑(だいがく)とも号した。医者としては玄琢(のちに玄瑞)を使う。死後、神霊能真柱大人(かむたまのみはしらのうし)の名を白川家より贈られている。 復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人の中の一人として位置付けられている。
田能村 竹田
江戸時代後期の南画(文人画)家。旅を好み日本各地を遊歴。詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。 幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。名は孝憲。字は君彜(くんい)。通称は竹蔵。別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。更に斎号(居室の名)に竹田荘・補拙廬・雪月書堂・対翠書楼など多数。
巻 菱湖
江戸時代後期の書家。越後国巻に生まれる。姓は池田、後に巻を名襲名。名は大任、字は致遠または起巌、菱湖は号で、別号に弘斎。通称は右内と称した。 菱湖は篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名のすべてに巧みで、特に楷書を得意とした。平明で端麗な書体は、千字文などにより、世に広く書の手本として用いられ、「菱湖流」と呼ばれた書風は幕末から明治にかけての書道界に大きな影響を与えた。
木下 応受
江戸時代後期の画家。 安永6年生まれ。円山応挙の次男。円山応震の父。母方の祖父木下萱斎の養子となって木下家をつぐ。父の画風をうけついで一家をなし,長沢蘆雪(ろせつ),森徹山らとともに応挙門の十哲と称された。文化12年9月6日死去。39歳。字は君賚。通称は直一。別号に水石。
亀田 綾瀬
江戸時代末期の日本の儒学者。名は長梓、字は木主、通称は三蔵である。儒学者・亀田鵬斎の一子として江戸に生まれる。学問を父に承け、学塾・学経堂を設けて子弟を教えた。最初は浅草の蔵前に、のちには日本橋本材木町に開塾し、晩年には深川に移る。藩主久世氏に招かれ関宿藩の藩校・教倫館の儒官となっている。嘉永6年(1853年)4月14日に死去。享年76。墓は今戸称福寺。後継者は養子の亀田鶯谷。門弟として芳野金陵・圓山北溟・並木爽山・出井貞順・新井稲亭・中島撫山らがいる。