1793-1837年。 江戸後期の陽明学者。大坂生。 名は後素、字は子起。 号は中斎、連斎。平八郎は通称。 天保の飢饉に際して民衆救済の乱を起こした。
望月 玉川
日本の江戸時代後期の望月派の絵師である。 名は輝、または重輝、字は子瑛、玉川、資清館と号した
土佐 光禄
江戸時代後期の画家。 土佐光時(みつとき)の子。父の跡をついで絵所預(えどころあずかり)となるが,その画業はあきらかでない。
金子 雪操
江戸時代後期の画家。 寛政6年生まれ。江戸の人。伊勢(いせ)(三重県)長島藩主の増山正賢(ましやま-まさかた)につかえ,画をおしえられる。のち釧(くしろ)雲泉に山水画法を,大窪詩仏に詩をまなび,京都で書をおさめた。のち大坂にすむ。山水・花鳥画にすぐれ,鼎(かなえ)金城らの門人がいる。安政4年8月5日死去。64歳。本姓は犬塚。名は大美。字は不言,孟玉。別号に美翁。
鈴木 其一
江戸時代後期の絵師。江戸琳派の祖・酒井抱一の弟子で、その最も著名な事実上の後継者である。もと氏は西村、一説には山本。諱は元長、字は子淵。其一は号で、のちに通称にも使用した。別号に噲々、菁々、必庵、鋤雲、祝琳斎、為三堂、鶯巣など。
宇喜多 一蕙
1795年-1859年
幕末に活躍した大和絵の絵師。
宇喜多博文の子。
本姓は藤原、後に豊臣を称した。
諱は公信、のち可為(よしため)。
別称・主馬、内蔵允。一蕙斎、為牛、為仏子、谷神子、瑞草、香、画院生徒、昔男精舎などと号した。
浮田一蕙と表記することもある。
春木 南溟
江戸時代後期から明治期の南画家。春木南湖の長男。 名ははじめ秀熙のちに龍。字は子敬のちに子緝。南溟は号、別号に耕雲漁者・呑山楼など。通称は卯之助。江戸の生まれ。
金井 烏洲
江戸時代後期の画家、勤皇家である。通称は左仲太、のちに父の名を継いで彦兵衛、字を子修また林学、諱は時敏のちに泰。号は烏洲、朽木翁、呑山人、白沙頓翁、白沙村翁、雨笠、晩泰翁、栃木翁、小禅道人、獅子孔道人など。従五位。金井之恭は息子。
熊坂 適山
江戸時代後期の南画家。 名は助広、字は千畝、通称は床三郎。号は適山の他に波玉・摘山・元精・千水など。陸奥伊達の生まれ。 文化4年(1807年)、松前藩が梁川に転封になったとき、家老にして画人の蠣崎波響に師事し、波玉と号した。波響からは写生を基礎とする画の基本を磨き、師が蝦夷地に戻るとき、その紹介で京都の浦上春琴に入門し南画を修行。その後、豊後の田能村竹田にも画法を学んでいる。
中島 来章
幕末・明治の円山派の画家。近江生。姓は源、字は子慶、号に春分斎・通神堂等。初め画を渡辺南岳に学び、のち円山応瑞に従う。横山清暉・岸連山・塩川文麟と共に平安四名家といわれる。幸野楳嶺・川端玉章らは門人。俳句も能くする。
寺門 静軒
幕末の儒学者。諱は良。字は子温。通称は弥五左衛門。克己・蓮湖という号もある。
高久 靄崖
江戸時代後期の文人画家。 下野那須郡杉渡戸に生まれる。諱は徴、字は遠々のちに子遠、通称秋輔。号は靄厓のほかに石窟、如樵、石窠学、梅斎、疎林外史、学梅斎、晩成山房など。
後藤 松陰
江戸時代後期の儒者。 生地の美濃大垣で菱田毅斎(ひしだきさい),ついで頼山陽(らいさんよう)にまなぶ。文政3年大坂で塾をひらく。詩文をよくした。妻は篠崎小竹の娘,町。名は機。字は世張。通称は春蔵,俊蔵。別号に春草,兼山。著作に「春草詩抄」「松陰詩稿」など。
斎藤 拙堂
江戸後期の儒者。江戸生。増村作蔵の次男。名は正謙、字は有終、通称は徳蔵、別号に鉄研学人等。昌平黌で古賀精里に学ぶ。津藩藩校設立の際、藩主藤堂高兌により学職に抜擢され、藩校の発展に尽くした。歴史・文章に秀で、『海外異伝』『海防策』等多数の著がある。
沖 一峨
1797年-1855年
江戸時代後期の狩野派の絵師。
鳥取藩の御用絵師。
名は貞(てい)。
字は子仰(しこう)、子卿(しきょう)。
渕泉、探三と称し、剃髪後は静斎と号した。
狩野派から出発しつつも他派の多様な画風を学び、精緻華麗な表現で当時の江戸で人気を博した。
一峨の作品は地元の鳥取県立博物館や渡辺美術館に多く所蔵されている。
高島 秋帆
幕末の兵学者・砲術家。長崎生。名は茂敦、字は舜臣、通称を糾之丞。鉄砲を外国より購入し、その鋳造に尽力した。近代的西洋流砲術の先駆者で進取的精神の持主であった。幕府の鉄砲方手付、教授方頭取、講武所砲術師範役などを歴任。
野田 笛浦
江戸時代後期の儒学者、漢文家。名は逸、字は子明で、通称は希一。別号に海紅園という。斎藤拙堂・篠崎小竹・坂井虎山とともに文章四名家と称された。日本画家の野田九浦、脚本家の野田高梧は孫にあたる。
八田 知紀
幕末・維新の鹿児島藩士・歌人。幼名は彦太郎、通称は喜左衛門、号は桃岡。京都藩邸勤務となり、歌を香川景樹に学ぶ。島津貞姫入輿に従って近衛家に仕え、維新後は宮内省に出仕して歌道御用掛に任命された。『しのぶ草』等の家集がある。
藤森 弘庵
1799-1862年。
幕末の儒者、勤王家。江戸生。
字は淳風、名は大雅、通称を恭助、別号に天山。
ペリー来航の際『海防論』『芻言』を著し、安政の頃、人心を鼓動するという理由で江戸を逐われたが、後
赦される。
生方 鼎斎
江戸時代後期の書家。 寛政11年生まれ。巻菱湖(まきりょうこ)門の四天王のひとり。天保通宝の文字をかいたという。安政3年1月7日,福田半香宅の酒席での争いから,帰路,剣客金子健四郎の若党に殺された。58歳。上野出身。名は寛。字は猛叔。通称は造酒蔵。別号に一粟居士,相忘亭主人など。
大原 呑舟
江戸後期の画家。阿波生。名は鯤、別号に鯤崘・崑崙等。京都に出て大原呑響の養子となる。呉春の門人柴田義董に画法を学び、山水・人物を能くした。筆力は力強く伸び伸びとしている。
木戸 松菊
幕末・明治初期の政治家。大久保利通,西郷隆盛とともに明治維新の三傑と称される。長州藩出身。初め桂小五郎のち木戸貫治ついで準一郎,孝允と改名,号は松菊。1849年吉田松陰の門下となり,52年江戸に出て斎藤弥九郎の塾で修業。やがて尊王攘夷運動に参加し,60年井伊大老暗殺直後に水戸藩士西丸帯刀(たてわき)らと丙辰丸盟約を結んだ
渡辺 赤水
江戸後期の画家。江戸生。名は昴、字は伯顆、通称は忠蔵。玄対の子。画法を父から受ける。
徳川 斉昭
江戸時代後期の大名。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代の将軍・徳川慶喜の実父である。第7代藩主・徳川治紀の三男として生まれる。母は公家の外山氏。幼名は虎三郎、敬三郎。初めは父・治紀より偏諱を受けて紀教(としのり)、藩主就任後は第11代将軍徳川家斉より偏諱を受けて斉昭と名乗った。諡号は烈公、字は子信、号は景山、潜龍閣。 神号は「押健男国之御楯命」(おしたけおくにのみたてのみこと)・「奈里安紀良之命」(なりあきらのみこと)など。官位は従三位権中納言だが、薨後、正一位権大納言が贈られている。