江戸後期の画家。字は子栄・子信。致道と号す。在中の長男。画を父に学び、その技巧は父以上と評される。文化2年、在中のもとをはなれ三海姓を称し、東堀川通下立売に居住。
木下 逸雲
江戸時代後期の長崎の南画家。鉄翁祖門・三浦梧門と共に長崎三大家とされる。 幼名弥四郎といい、のちに通称を志賀之介とした。諱を相宰。逸雲は号、ほかに如螺山人・物々子。室号を養竹山房・荷香深処とした。 画は、はじめ唐絵目利の石崎融思に学び、来舶清人の江稼圃・張秋穀からは南画の技法を修めた。その後も清人陳逸舟、徐雨亭にその画風を学んだ。さらに雪舟、狩野派・大和絵・円山四条派などの諸派や西洋画の画法を熱心に研究し、様々な技法を取り入れた。
椿 椿山
江戸後期の文人画家。江戸生。名は弼、字は篤甫、別号に琢華堂・休菴・羅漢等。幕府の槍組同心をつとめ、文武ともに優れた。画は金子金陵・渡辺崋山に師事する。柔軟な筆と温雅な彩色による画調に特質があり、肖像画と花鳥画に優れた。俳諧・煎茶にも通じた。
大竹 蒋塘
江戸時代後期の書家。 享和元年生まれ。朝川善庵に儒学を,巻菱湖(りょうこ)に書道をまなんだ。安政5年3月16日死去。58歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。名は培。字(あざな)は達夫。別号に心静堂など。
大槻 磐渓
名は清崇、江戸時代後期から幕末にかけて活躍した漢学者。文章家としても名高い。 仙台藩の藩校、明倫明倫養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。
佐竹 永海
江戸時代後期から明治初めの画家。彦根藩御用絵師として井伊直弼に仕える。 名・字は周村・愛雪・篤敬。通称を衛司。 号は初め盤玉、のちに衛階・永海とした。他に雪梅・天水翁・九成堂・幽室子・愛雪楼などの多くの号をもつ。会津の生まれ。
村瀬 太乙
1803-1881年。
幕末、明治の尾張犬山藩儒、詩人、画人。美濃生。
名は黎、字・号共に太乙。通称は泰一。
京に出て頼山陽の門に学ぶ。
犬山藩に儒臣として仕え藩校敬道館で教授する。
芳野 金陵
江戸後期-明治時代の儒者。 芳野南山の次男。江戸にでて亀田綾瀬(りょうらい)にまなぶ。弘化4年駿河田中藩の儒官となり,藩財政の改革,文教刷新につくす。文久2年昌平黌儒官。 下総(葛飾郡松ケ崎村出身。名は成育。字は叔果。通称は愿三郎。著作に「金陵詩鈔」など。
萩原 秋巌
幕末・明治の書家、名は翬、字は文侯、通称は祐助のち自然と改める。別号は古梁漁夫・大飛・松筠堂等。巻菱湖に書を学び、詩は宮沢雲山に学ぶ。主な著書に『書法薈粋』『十体源流』等。
間部 詮勝
越前鯖江の城主。初名は詮良、松堂と号する。幕府の老中となり、従五位下総守に至る。大老井伊直弼を助け、幕末の難局に当る。唐絵を能くした。
梁川 紅蘭
画家。名は景婉、字道華、号紅蘭亭。星巌の室。自ら張氏と称す。美濃の人。聡明にして詩文をよくし、中林竹洞に画を学んで山水花弁をよくした。常に星巌に随って諸国の山川の勝を探り一対の好夫婦と賛えられた。頼三樹三郎等の志士が出入したため幕吏の疑うところとなり安政の大獄には星巌は己に歿していたものゝ紅蘭は投獄されたが遂に正義をつらぬき許された。
高橋 草坪
幕末の文人画家である。田能村竹田の高弟。天賦の才に恵まれたがわずか32歳で早世する。 諱は雨、字を草坪・元吉、号は沢民・六田と称したが後に草坪と改めた。他に錦江外史・片心人・小桜坊など。豊後の人。
岸 連山
江戸時代後期の岸派の絵師。京都生まれ。旧姓、青木。のち岸駒の養子となる。幼名を徳次郎。のちに昌徳、徳などと名乗る。通称・文進。字は士道、士進。号は萬象楼。 文化元年、青木新助の子として京に生まれる。岸駒、岸良に師事する。岸駒の長女で岸良の妻・貞の先婿との娘・晴(春)と結婚、婿養子となり第三代岸派を継承した。文政6年(1823年)以降は父祖と同様、有栖川宮家に仕えた。
愛石
江戸時代、文化・文政(1804~1830)頃の画僧。名は眞瑞、字は黙叟、愛石はその号。紀州の人。
福田 半香
江戸時代後期の日本の南画家である。 名前は佶(きつ)、字は吉人、通称は恭三郎。 初号は盤湖、半香は後に付けた号で、別号に暁夢。渡辺崋山の高弟で、崋山十哲の一人。
守村 抱儀
鶯卿(おうけい)の兄。江戸浅草蔵前の札差。俳諧(はいかい)を成田蒼虬(そうきゅう),絵を酒井抱一(ほういつ),詩文を中村仏庵にまなび,天保(てんぽう)二十四詩家のひとりにかぞえられる。小沢何丸の後援者だったが,豪華な生活で家産をかたむけた。名は約。通称は次郎兵衛。別号に鴎嶼など。著作に「うみみぬ旅」など。
土佐 光清
日本の江戸時代後期から幕末にかけて活動した土佐派の絵師。土佐派分家の2代目土佐光孚の長男で、弟に土佐光文。幼名は繁松丸、字は子纓、号は鏡水。
山田 方谷
1805-1877年。 幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。 方谷は号。備中聖人と称された。
藤田 東湖
幕末の水戸藩の儒臣。幽谷の次男。名は彪、字は斌郷。藩主徳川斉昭を助けて藩政改革をすすめ、尊攘派の指導者として活躍。斉昭の幕政参与にともない幕府海防掛に任ぜられ、横井小楠・橋本左内ら諸国の志士と交わった
宮原 潜叟
江戸後期-明治時代の儒者。 備後の人。頼山陽の門人。昌平黌(しょうへいこう)にまなび,京都に塾をひらいた。書にすぐれたが,九州では西南戦争の「せんそう」に音が通じる署名がこのまれなかったという。名は竜。字は士淵。通称は謙蔵。別号に節庵。
柴田 是真
幕末・明治の日本画家・蒔絵工。東京生。幼名は亀太郎、のち順蔵、別号に令哉・古満等。古満寛哉に蒔絵を、鈴木南嶺・岡本豊彦に四条派を学び、絵画・蒔絵・漆絵に才を発揮する。古来とだえていた蒔絵の技法・青海波塗を復活させ、内外の展覧会で受賞した他、宮中の御用も度々つとめ、明治御殿襖絵や新宮殿杉戸絵などを描いた。頼山陽・香川景樹ら諸名家とも親交した。帝室技芸員。
広瀬 旭荘
幕末の儒者。豊後生。兄は淡窓。 名は謙、字は吉甫、梅暾と号する。亀井昭陽、のち菅茶山に入門する。 天保2年淡窓に代り家塾の咸宜園を監督する。のち江戸で林述斎に学び、晩年大坂に住する。 詩学で知られる。『梅暾詩鈔』の著がある。
亀田 鶯谷
江戸後期-明治時代の儒者。 文化4年5月3日生まれ。江戸にでて亀田綾瀬(りょうらい)にまなび,養子となる。下総(しもうさ)関宿(せきやど)藩(千葉県)の儒官となり,藩校教倫館でおしえた。明治14年8月2日死去。75歳。下総岡田郡(茨城県)出身。本姓は鈴木。名は毅,長保。字は申之。通称は保次郎。別号に本教教舎,稽古楼。著作に「鶯谷先生詩藻」など。
藤井 竹外
幕末の漢詩人。名は啓、字は士開、強哉。通称は啓治郎、吉郎。竹外、また雨香仙史、酔士とも号す。子の貞臣(又一)は槍の名人として知られる。