日本の江戸時代後期から末期に活躍した絵師。通称は祐之丞。名は隆仙。字は柏樹。秋暉は画号で、別号に秋翁。主に花鳥画、特に孔雀を得意とし、「若冲の鶏」「光起の鶉」「狙仙の猿」などと並んで、「秋暉の孔雀」と評される。谷文晁、渡辺崋山、椿椿山ら江戸南画の大家が没した幕末期の江戸で、山本琴谷、福田半香、鈴木鵞湖と共に四大家と呼ばれた。
酒井 鶯浦
江戸時代後期の画家。 文化5年生まれ。江戸市ケ谷浄栄寺の住職。酒井抱一(ほういつ)の養子となり,書画などをまなび,抱一の没後,雨華庵をついだ。俳諧(はいかい)にもすぐれた。天保12年7月23日死去。34歳。法名は詮真。別号に鷺浦(ろほ)。
三浦 梧門
江戸時代後期の長崎の南画家。鉄翁祖門・木下逸雲と共に長崎三大家とされる。 諱は惟純、字を宗亮。通称は総助もしくは惣吉。梧門は号で別号に秋声・荷梁・香雨など。
横井 小楠
1809-1869年。
江戸末期の思想家、政治家。熊本藩士。
名は時存、通称は平四郎。
別号に沼山。
藩政改革に努めたが失敗し、松平慶永に招かれて福井藩の藩政を指導。
幕府の公武合体運動に活躍。
明治維新後、暗殺された。著「国是三論」など。
中沢 雪城
江戸時代後期に活躍した書家。名は俊卿、字は子国、通称を行蔵という。雪城は号で雪生とも号した。堂号は蕭間堂。 巻菱湖(幕末の三筆の一人)の高弟で、流麗な書風をもって大いに流行し、菱湖四天王の一人に数えられた。雪城の門下から巌谷一六・西川春洞・金井金洞の大家が輩出した。
高久 隆古
江戸時代後期の画家。復古大和絵派。 本姓は川勝。諱は隆恒、字は述而。通称は斧四郎。号は隆古の他に梅斎など。高隆古・泰隆古と称した。武蔵埼玉郡忍城下(現・埼玉県行田市)の生まれ。
帆足 杏雨
幕末から明治時代に活躍した文人画家である。田能村竹田の高弟。日本最後期の文人画家のひとり。 幼名は熊太郎のち庸平、諱は遠、字を致大、杏雨のほか鶴城・聴秋・半農などと号した。豊後の人。
山本 琴谷
江戸時代後期の画家。 文化8年3月生まれ。石見(いわみ)(島根県)津和野藩家老の多胡逸斎(たご-いっさい)にまなび,江戸で桜間青涯,渡辺崋山に師事する。人物,山水を得意とし,嘉永(かえい)6年津和野藩絵師となった。明治6年10月13日死去。63歳。石見出身。本姓は吉田。名は謙。字は子譲。作品に「遊魚図」など。
佐久間 象山
江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。通称は修理(しゅり)、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。位階は贈正四位。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。松代三山の一人。
平野 五岳
1811-1893。
江戸後期-明治時代の僧、画家。
豊後生。
名は岳、聞慧、別号に古竹園、方外仙史等。
土佐 光文
日本の江戸時代後期から明治初期にかけて活動した土佐派の絵師、日本画家。土佐派分家の2代目土佐光孚の次男で、後に本家に養子入りし、土佐派第22代を継いだ。幼名は延丸、字は子炳、号は韓水。
真木 保臣
江戸時代後期の久留米水天宮祠官、久留米藩士、尊皇攘夷派の活動家。父は真木旋臣、母は中村柳子。神官として従五位下・和泉守の官位を持ち、真木和泉守もしくは真木和泉、真木和泉守保臣として知られる。雅号は紫灘(したん)。贈正四位。
日根 対山
幕末の文人画家。 日根野とも呼ばれる。名を盛長、字を成言・小年、対山のほかに茅海・錦林子・同楽園・雲煙楼・酔墨庵などと号した。和泉国日根郡中庄村湊に生まれる。日根又衛門の三男として生まれる。幼い頃より絵を好み、はじめ土佐派の桃田栄雲に学び、大坂に出た後岡田半江に就いて南画を学んだ。泉佐野の豪商・里井浮丘とは幼なじみで、浮丘の庇護を受け中国絵画の臨模などで画業を磨いた。
原 在照
日本の江戸時代末期に活躍した絵師。原在中、原在明と続く原派の3代目。字は子寫。在照は号で、別号に観瀾、南荊、夕鸞(ゆうらん)。
田能村 直入
南画家。豊後生。字は顧絶、初め小虎と号し、のち直入と称する。田能村竹田に学び、竹田にその才能を認められ養嗣子となる。南宗画学校を開くなど、南画壇の向上に尽力した。
森 寛斎
日本の幕末から明治時代に京都を中心に活躍した絵師、日本画家。本姓は石田。幼名は幸吉、のち尚太郎。諱は公粛。字は子容、 または寛仲。寛斎は号で、別号に桃蹊、晩山、造化室、天開図画楼。 森狙仙、森徹山、森一鳳・寛斎と続く森派の絵師。若い頃は攘夷運動に熱中したのとは裏腹に、温和で情趣的な画風で、「明治の応挙」と評された。
小野 湖山
幕末から明治時代の漢詩人。名は長愿・字は舒公、通称は仙助・侗之助、別号に玉池仙史と称した。大沼枕山、鱸松塘とともに、明治の三詩人と称された。近江国の生まれ。
梅田 雲浜
江戸時代末期(幕末)の儒学者。通称は源次郎。名は義質、定明。号は雲浜のほか、湖南。文化12年6月7日、小浜藩士・矢部義比の次男として誕生。雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。
田崎 草雲
日本の南画画家。名は芸(うん)。字は草雲。弟子に小室翠雲がいる。司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデル。
狩野 立信
幕末・明治の画家。中橋狩野家15世。14世祐清邦信の養嗣子、木挽町狩野家6代伊川院の六男。初名は信光、幼名は熊五郎、号は永悳・晴雪斎。安政4年法眼に叙せられ、維新後は帝国博物館監査掛等を歴任、帝室技芸員となる。
大橋 訥庵
江戸時代後期の儒学者、尊王論者。諱は正順、通称は順蔵、字は周道、訥庵は号。幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした。
藤本 鉄石
幕末の志士・書画家。諱は真金。通称を学治・津之助、字を鋳公。鉄石・鉄寒士・吉備男子・柳間契民・海月浪士・取菊老人・都門売菜翁など多数の号がある。 岡山藩を脱藩し、諸国を遊歴して書画や軍学を学ぶ。京都で絵師として名をなし、尊攘派浪人と交わり志士活動を行った。大和行幸の先駆けとなるべく大和国で挙兵して天誅組を結成し、吉村虎太郎、松本奎堂とともに天誅組三総裁の一人となる。その後、幕府軍の討伐を受けて天誅組は壊滅し、藤本も戦死した。
谷口 藹山
幕末から明治期の日本の文人画家。山水画、花鳥画を得意とした。 名は貞二、画家になってからは貞と称した。字を士幹、号は藹山、室号を鴨浙水荘とした。富山の生まれ。
大沼 枕山
幕末・明治の漢詩人。江戸生。幕臣大沼竹渓の子。名は厚、字は子寿、通称は捨吉、別号に台嶺。幼少より尾張で叔父鷲津松隠に学び、江戸に出て、大窪詩仏・菊池五山らに認められ、名を高めた。