室町時代中期から戦国時代にかけての大和絵の絵師。土佐広周の嗣子で、実際は土佐光弘の子。子に土佐光茂がいる。土佐光長、土佐光起とともに土佐派三筆と称され、土佐派中興の祖とされる。官位は従四位下・刑部大輔。
狩野 正信
室町中期の画家。伊豆の人。狩野派の祖。 師の宗湛(そうたん)の跡を継いで室町幕府の御用絵師となり、水墨画を中心とする漢画と大和絵を使い分け、その現実的で平明な画風が好まれて、狩野派の基礎を築いた。
狩野 元信
1476-1559年。 室町後期の画家。法号、永仙。 父正信に続いて幕府御用絵師として活躍。 宋・元・明画様式に大和絵の技法を取り入れ、力強い装飾性をもつ様式を大成。 桃山障壁画の基礎を確立。
秋月
室町後期の画僧。薩摩生。名は等観、俗姓は高城。出家して禅僧となり、備中に出て雪舟等楊に師事。雪舟より印可の自画像を付与される。師雪舟の画風を忠実に継ぎ、水墨山水・達磨の画を能くした。
亀井 昭陽
江戸後期の儒者。筑前生。名は昱、字は元鳳。南溟の長男。父の後を継いで福岡藩西学甘棠館受持とまる。徂徠学を奉じて頼山陽と交わり、広瀬淡窓・旭荘を育てた
雪村
室町時代後期・戦国時代の水墨画家、僧侶。雪村周継とも称し、諱、別号に如圭・鶴船老人等。佐竹氏の一族で武家を継がず禅僧となる。周文 (英語版)・雪舟 (英語版)の画風を慕い、のち独自の特色を発揮して一家を成す。最も山水画に長じ、花鳥画・人物画も能くした。
狩野 松栄
室町後期・安土桃山時代の画家。狩野宗家。元信の三男、宗信の養子。兄は宗信(祐雪)・秀頼。子は永徳(初世)。名は直信・幹信、通称を源七郎・大炊助。元信と共に石山本願寺障壁画、狩野永徳と共に大徳寺聚光院障壁画を制作、元信より室町的要素の抒情性を示した。代表作に「花鳥図屏風」がある。
相阿弥
室町時代の絵師、鑑定家、連歌師。姓は中尾、名は真相(しんそう)、号は松雪斎・鑑岳。父は芸阿弥、祖父は能阿弥。
海北 友松
1533-1615年。
安土桃山・江戸初期の画家。近江生。
名は紹益、初名は友徳、別号に如切斎・有景斎。
初め狩野元信に学び、のち狩野永徳を師とする。
足利 義輝
室町幕府十三代将軍。十二代義晴の長男、母は関白近衛尚通の娘。幼名は菊幢丸、初名は義藤。天文15年将軍となるが、諸将対立のあおりを食い、近江に逃れる。六角義賢の仲介で帰洛して以後、交戦中の戦国大名間に和義を勧めるなど将軍権威の回復に努めた。
土佐 光吉
室町時代から安土桃山時代の大和絵土佐派の絵師。子に土佐光則。住吉如慶は子とされることもあるが、弟子説が有力。官位は従五位下・左近衛将監。
土佐 光継
土佐光吉の門人
徳川 家康
徳川家の始祖。旧称は松平元康(まつだいら もとやす)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名[1]・天下人。安祥松平家9代当主。戦国時代に終止符を打った武将で、江戸幕府を開府し初代征夷大将軍となる。三英傑のひとり。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している
狩野 永徳
室町後期・安土桃山時代の画家。狩野宗家五世。 山城国生。 名は初め州信、のち重信、通称は源四郎、古永徳と呼ばれる。 父松栄に画法を受け、祖父元信の筆意を会得する。織田信長の御用絵師となるが、晩年は豊臣秀吉に仕えた。
本阿弥 光悦
安土桃山・江戸前期の芸術家。京都生。号は太虚庵・自得斎。代々刀剣鑑定・研磨を家職とする。近衛信尹・松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人。家康から与えられた洛北鷹ヶ峰の地で、一族・工匠と共に創作と風雅三昧の生活を送った。
狩野 山楽
1559-1635年。
桃山時代の画家。
近江の人。名は光頼。
通称は修理亮。
豊臣秀吉に画才を認められ、狩野永徳に学んで、豊臣・徳川家関係の障壁画を数多く描いた。
京にとどまり、京狩野派の祖となった。
山田 道安
戦国・織豊時代の画家・大和山田城主。筒井氏の一族にして、名は順貞、民部と称した。初め周文・雪舟の画風を慕い、のち宋人の筆意を得た。「道安」の号は、順貞、順清、順知と三代をかぞえ、歴代同じ印章を用い、ともに武人画家として知られた。
狩野 雅楽助
室町時代後期に活躍した狩野派の絵師。
狩野正信の次男で、狩野元信の弟。
諱は之信(ゆきのぶ)、雅楽助は通称。
号は輞隠(もういん)。
俵屋 宗達
江戸時代初期の画家。通称は野々村宗達。号は「伊年」あるいは「対青軒」など。
土佐 一得
安土桃山時代から 江戸時代初期にかけて活躍した土佐派の絵師。
一徳とも表記される。
土佐光吉の門人であったとも言われている。
寛永15年に武蔵国川越の喜多院の客殿と書院に障壁画を描いたと記されている。
現在確認されている作品は10点程しかなく、中国宋の画院画家・李安忠の「鶉図」に学んだ写実的な作品が多く残り、松花堂昭乗風の作風も取り入れ、土佐派伝統的な細密画もこなしている。
沢庵 宗彭
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧。大徳寺住持。諡は普光国師。号に東海・暮翁など。 但馬国出石の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある
松花堂 昭乗
江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。姓は喜多川、幼名は辰之助、通称は滝本坊、別号に惺々翁・南山隠士など。俗名は中沼式部。堺の出身。 書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び,独自の松花堂流という書風を編み出し、近衛信尹、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられた。なお松花堂弁当については、日本料理・吉兆の創始者が見そめ工夫を重ね茶会の点心等に出すようになった「四つ切り箱」、それを好んだ昭乗に敬意を払って「松花堂弁当」と名付けられたとする説がある
石川 丈山
1583-1672年。
江戸前期の漢詩人、書家。
三河の人。
名は凹、別号に六々山人、四明山人、凹凸窩等。
徳川家康に仕え、大坂夏の陣で活躍。
詩文集に「新編覆醤集」がある。
土佐 光則
安土桃山時代 – 江戸時代初期、大和絵の土佐派の絵師。源左衛門尉、あるいは右近と称した。土佐光吉の子供、あるいは弟子。住吉如慶は弟とも、門人とも言われる。土佐光起の父。