江戸後期の幕臣。江戸生。本姓は設楽、字は善鳴、通称は忠三郎・修理。外交事務に従事、幕末第一の外交家。我国開国の事実上の恩人。将軍継嗣問題で処分され隠居。詩文・書画を能くする。文久元年(1861)歿、44才。
佐瀬 得所
幕末-明治時代の書家。 文政5年生まれ。陸奥会津の人。おさないころから書にしたしみ,欧陽詢(おうようじゅん),趙子昂(ちょうすごう)らの書をまなぶ。清へ留学ののち,東京で子弟におしえた。明治11年1月2日死去。57歳。名は恒。字は子象。通称は八太夫。別号に松城。著作に「楷書楽志論」など。
山中 静逸
明治時代に活躍した書家・政治家である。山中信天翁(やまなか しんてんおう)として知られる。 幼名は松寿。諱(いみな、生前の実名)は献(まつる)。号を信天翁、静逸と称した。三河国棚尾村東浦に生まれる。
谷 鉄臣
幕末-明治時代の武士,官吏。 文政5年3月15日生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)彦根の町医者の長男。江戸,長崎で経学,蘭方をまなび,家業をつぐ。文久3年彦根藩士にとりたてられ,藩の外交を担当。維新後は新政府の左院一等議官。明治38年12月26日死去。84歳。旧姓は渋谷。初名は退一。字は百錬。通称は騮太郎。号は太湖。
頼 支峰
1823-1889年。 幕末-明治時代の儒者。頼山陽の次男。頼三樹三郎の兄。 後藤松陰、牧百峯に学ぶ。東京遷都に際し天皇に随行。名は復。字は士剛。 通称は復二郎、又次郎。
勝 海舟
江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)、政治家。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。 山岡鉄舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。 幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦 (よしくに)、明治維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホゥ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったものである。海舟という号は本来誰のものであったかは分からないという。
巻 鴎洲
江戸時代後期の書家。 文政7年生まれ。江戸の人。父巻菱湖(りょうこ)にまなぶ。明治2年9月25日死去。46歳。名は之紀。字(あざな)は百里。通称は柳輔。別号に掖々山人。
江馬 天江
1825-1901年。
幕末の勤王詩人、医者。近江生。
儒者下坂篁斎の六男。
名は聖欽、字は永弼、通称を正人。
緒方洪庵に蘭学を、梁川星巌に詩文を学ぶ。
維新後太政官吏官となり、西園寺公望が創設した漢学塾立命館の塾長を務めた。
頼 三樹三郎
1825年-185年。
江戸時代末期の儒学者。
諱は醇。通称は三木八。
字は子春、号は鴨崖。
頼山陽の三男。
安政の大獄に奔走し刑死する。
成瀬 大域
1827-1902年。
幕末明治期の書家。
静岡県生。
名は温、字は子直、久太郎と称する。
通称は久太郎。別号に桂斎。
書法を祖父巣父に学ぶ。
王羲之の『書聖教序』を臨書、また文部省検定の習字帖の編纂に数10年携わった。
関 雪江
幕末-明治時代の書家。 文政10年生まれ。関思亮(しりょう)の子。常陸土浦藩士。代々書家としてつかえ,詩もよくした。慶応3年江戸で家塾雪香楼をひらいた。明治10年11月24日死去。51歳。江戸出身。名は思敬(しけい)。字は鉄卿(てつあき)。通称は鉄蔵,忠蔵。別号に弘道,雪香楼。編著に「六書十体考」,詩集に「雪香楼詩鈔」など。
中林 梧竹
日本の書家。明治の三筆の一人。名を隆経、通称は彦四郎、字は子達。梧竹は号である。また剣閣主人ともいった。家は代々鍋島藩の支藩小城藩の家臣であった。
野口 幽谷
幕末・明治の日本画家。江戸生。名は続。通報は巳之助。椿椿山に学ぶ。松林桂月は門人。帝室技芸員。
副島種臣
日本の江戸時代末期(幕末)から明治時代の武士(佐賀藩士)、政治家、書家。位階・勲等・爵位は正二位勲一等伯爵。 初名は竜種(たつたね)。通称は次郎(じろう)。号に蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)。 内務大臣(第4代)、枢密院副議長(第2代)、外務卿(第3代)を歴任した。
菊池 教中
幕末の豪商,尊攘運動家。 文政11年8月17日生まれ。菊池淡雅・民子の子。江戸の木綿問屋佐野屋孝兵衛の2代目。姉婿大橋訥庵(とつあん)の影響で攘夷(じょうい)論を信奉,外国との戦争にそなえて下野宇都宮領内に新田を開発。安藤信正襲撃の計画にくわわって捕らえられ,出獄まもない文久2年8月8日病死した。35歳。号は澹如(たんじょ)。
小曽根 乾堂
江戸時代末期から明治時代の日本の事業家・書家・文人画家・篆刻家である。明治政府の勅命により御璽・国璽を刻したことで知られる。また、坂本龍馬のよき理解者であり、財政面を支えている。 幼名を六郎太、六朗。諱を豊明、字を守辱、乾堂は号で室号を鎮鼎山房・浪平釣叟とした。通称は栄。長崎の人。
平野 国臣
日本の武士・福岡藩士、志士。大蔵氏の流れをくむ。通称は次郎、巳之吉。諱は種言、種徳。変名に都甲楯彦、宮崎司、草香江水際、佐々木将監など。贈正四位。 攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄される。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。
西郷 南洲
幕末・明治の薩摩藩士・政治家。薩摩生。名は隆永・隆盛。通称は小吉・吉兵衛・吉之助。討幕派の指導者として薩長同盟・王政復古・戊辰戦争を指揮する。維新後は政府の参議となり廃藩置県に協力するが、征韓論に敗れて帰郷、不平士族層に推され、西南戦争を起こす。
熊谷 直彦
幕末・明治の日本画家。京都生。京都の神職山本季金の子、広島藩士熊谷左門の養子。幼名は藤太郎、季彦・篤雅と号す。岡本茂彦に師事し、四条派を学ぶ。有職故実に通じ、特に山水・人物画に秀でた。帝室技芸員。
小永井 小舟
1829-1888年。
幕末-明治時代の儒者。
下総佐倉出身。
本姓は平野。
名は岳。字は君山。
通称は八郎。
著作に「無絃琴」など。
勾田 台嶺
江戸後期の南画家。尾張生。名は寛宏、字は文饒。中林竹洞に画を学び、のち江戸へ出て広瀬台山に師事する。晩年には元・明の古跡を修得する。山水・花鳥を能くした。天保頃(1830~1844)の人。
大久 保甲東
幕末・明治の薩摩藩士・政治家。薩摩生。 初名は利済、通称は正助、のち一蔵、名は利通。公武合体運動に参加。 のち木戸孝允と結び薩長連合を成立させ、王政復古の指導的役割を果たす。維新後、参議となり廃藩置県・版籍奉還を成功させる。 また征韓論に反対して、地租改正・殖産興業等内政の確立をはかった。
三森 幹雄
幕末-明治時代の俳人。 江戸で志倉西馬(しくら-さいば)に師事。のち神道の大成教に属し,俳諧(はいかい)による教化運動をはかる。明治13年「俳諧明倫雑誌」を創刊。陸奥石川郡(福島県)出身。本名は寛。別号に春秋庵(11代)など。著作に「俳諧名誉談」など。
白井 華陽
江戸時代後期に活躍した岸派の絵師。『画乗要略』の著者として知られる。名は景広、広、実。字は士潤。通称は貞介。華陽は号で、別号に梅(楳)泉、楳泉画楼など。新潟多門通の素封家、白井善十郎の長男に生まれる。