江戸の人。中井敬義(たかよし)にまなぶ。草書を得意とした。名は正義。字は直方。通称は正輔。
久保田 米僊
日本画家。京都生。名は寛。幼名米吉。別号に錦麟子。鈴木百年の門。 民友社に入り新聞挿絵に新生面を開き、日清戦争時には画報記者として従軍、画才をふるった。 やがて眼疾により失明ののちは俳諧狂歌や評論にいそしんだ。
渡辺 省亭
明治時代から大正時代にかけての日本画家。洋風表現を取り入れた、洒脱な花鳥画を得意とした。菊池容斎の門人。本姓は吉川、名は義復(よしまた)、俗称は良昭、幼名は貞吉、後に政吉。通称は良助。省亭は号。一昔前は専門家でも「しょうてい」と読んでおり、当ページの英語・仏語版でもそちらに従っている。
伊東 平蔵
戦前日本の図書館専門家、イタリア学者。旧徳島藩士。
市河 遂庵
幕末・明治の書家。加賀大聖寺藩士横井百翁の次子。市河恭斎没後、市河米庵の養子。名は三治、字は子成、通称は三治郎、別号を三山居士・靖所。米庵に学び、詩書を能くした。
菊池 芳文
日本画家。大阪生。本名は三原常次郎。初め滋野芳園を師とし、のち幸野楳嶺に就き、竹内栖鳳・谷口香嶠・都路華香とともに楳嶺門下の四天王に数えられる。近代的な構図や色彩を取り入れた花鳥画で知られ、特に桜の絵を能くした。京都絵専教授。帝室技芸員・文展審査員。
佐瀬 酔梅
明治-大正時代の書家。 文久3年生まれ。佐瀬得所の次男。北海道で新聞記者となり,のち報知新聞社にはいる。在職中,全国書道展覧会をひらくなど書道界に貢献。大正4年53歳で書家として独立した。草書を得意とした。大正6年10月1日死去。55歳。本名は得三。
竹内 栖鳳
戦前の日本画家。近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家である。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。 本名は恒吉。最初は棲鳳と号した。霞中庵の号もある。動物を描けば、その匂いまで描くといわれた達人であった。
寺崎 広業
日本画家。秋田県生。字は徳郷、別号に宗山・騰龍軒・天籟山人等。狩野派を小室秀俊に、四条派を平福穂庵に師事。のち南画家菅原白龍にも学び、諸派の画法を取り入れて、日本青年絵画協会・日本絵画協会等で活躍する。のち岡倉天心らと日本美術院を創立、また文展開設にあたって国画玉成会に参加、審査員として同席に出品を重ねる。東美校教授・日本美術協会会員・帝室技芸員。大正8年(1919)歿、54才。
山岡 米華
日本画家。高知県生。名は尚樹、字は子敬、通称は幸太郎、別号に小董堂・嫩芳園。 幼時、名草逸峰に南画を学ぶ。上京して裁判所書記をつとめながら大審院であった川村雨谷に師事した、のち画業に専念する。書は長三洲に学んだ。 文展審査員。日本南宗画会幹事。日本画会幹事。
尾崎 紅葉
小説家。東京生。名は徳太郎、別号に緑山、半可通人等。東大中退。硯友社を結成。『二人比丘尼色懴悔』で文壇的地位を確立。読売新聞を中心に活躍し、井原西鶴の影響を受けた雅俗折衷文体の小説で知られる。幸田露伴と共に紅露時代を現出。また俳句も手がける。
中村 敬宇
幕末・明治の啓蒙学者。江戸生。幼名は釧太郎、のち敬輔、敬宇は号、諱は正直。昌平黌に学び、のち教授となる。渡英し、帰国後スマイルスの『セルフヘルプ』を翻訳した。『西国立志編』を出版。私塾同人社を設け、「三田聖人」福沢諭吉と並び、「江戸川の聖人」といわれた。
下村 観山
日本画家。和歌山県生。名は晴三郎。東美校卒。狩野芳崖・橋本雅邦に学ぶ。日本美術院創立に参加し、横山大観・菱田春草と共に活躍、またその再興にも尽力する。東美校教授・帝室技芸員。昭和5年(1930)歿、58才。
戴 笠
中華民国の政治家・軍人(追贈で陸軍中将)。字は雨農。旧名は春風、徴蘭。
土佐 光茂
室町時代後期から戦国時代にかけての大和絵の土佐派の絵師。刑部大輔・土佐光信の子。実子に土佐光元。土佐派の跡を継いだ土佐光吉は次子とも弟子とも言われるが、『土佐家資料』[1]には光茂の没年や享年・戒名、光元の戦死場所などが正しく伝えられていない点から、門人説が有力である。官位は正五位下・刑部大輔。