江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)。字は子信。通称は又三郎。出家した後の号、道春(どうしゅん)の名でも知られる。
清巌 宗渭
安土桃山・江戸前期の臨済宗の僧。大徳寺百七十世。近江生。姓は佐々木、宗渭は諱、自笑子・孤陋子と号する。謚号は清浄方然禅師。大徳寺の玉甫紹琮に参禅、ついで賢谷宗良の法嗣となり、大徳寺の住職となる。のち、品川東海寺住職となった。書は張即之の影響を強く受け、画も能くした。寛文元年(1661)寂、74才。
狩野 山雪
1590-1651年。
江戸前期の画家。肥前の人。
名は光家。通称、平四郎、縫殿助。
別号に蛇足軒。
狩野山楽の門弟で、のち養子となる。理知的な構成の装飾画に独自の造形性を示した。
隠元 隆琦
明末清初の禅宗の僧。日本黄檗宗の祖。福建省福州府福清県の生まれで、その俗姓は林である。 隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。 なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされる。能書家としても知られ、木庵性瑫、即非如一とともに「黄檗の三筆」と称される。
野々口 立圃
俳人。名は親重、通称庄兵衛・市兵衛、別号に松翁・鏡山。 京都住。俳諧を松永貞徳に、和歌を烏丸光広に、書道を青蓮院宮尊朝法親王に、画を狩野探幽に学ぶ。 著書に『はなひ草』『追善九百韻』等がある。
那波 活所
江戸前期の儒者。姫路の人。名は方、のち觚、字は道円、通称は平八郎。藤原惶窩に師事し、林羅山・堀杏庵・松永尺五とともに惶窩門四天王と称された。和歌山藩主徳川頼宣に仕えた。
海北 友雪
1598-1677年。
江戸初期の海北派の画家。京都生。
父は画家海北友松。
名は道暉、通称は忠左衛門。
画を父友松、のち狩野探幽に学ぶ。
春日局によって徳川家光の推挙を受け海北家を再興した。
狩野派や大和絵の影響を受けた装飾的画風の海北派を樹立し、晩年は禁裏諸建築の障壁画制作にも関与した。
曾我 二直庵
江戸時代前期の画家。
曾我直庵の子。
署名に「直庵二」,印に「二直庵」をつかい2代目をあらわした。
十洲
書家
釋氏。
宋元の書風を得意とする。
朱 舜水
中国明の儒学者。江戸時代初期に来日。舜水は号。諱は之瑜。字は魯璵。 紹興府余姚県に生まれる。
楊月
室町後期の画僧。薩摩生。号は和玉。山城の笠置寺に住んだことから、笠置楊月と称された。周文・雪舟に師事し、牧溪に水墨画を学ぶ。山水・人物・花鳥画を能くする。
天海
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。
三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。
南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。
諡号は慈眼大師(じげんだいし)。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策、宗教政策に深く関与した。
宮本 武蔵
江戸時代初期の剣術家、兵法家、芸術家。
号は二天、また二天道楽。
著書『五輪書』の中では新免武蔵守または藤原玄信と名乗っている。
本阿弥 光甫
江戸前期の工芸家。本阿弥光悦の孫。父は光瑳。号は空中斎。家職である刀剣の鑑定に優れ、光悦の遺風を継ぎ茶道・書画・陶芸・彫刻をよくした。楽焼のほか信楽焼を得意とし、空中信楽と称された。本阿弥家の家記である『本阿弥行状記』を編集。
狩野 探幽
江戸時代初期の狩野派の絵師。狩野孝信の子。法号は探幽斎、諱は守信。早熟の天才肌の絵師、と評されることが多いが、桃山絵画からの流れを引き継ぎつつも、宋元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を切り開き、江戸時代の絵画の基調を作った。
狩野 信政
江戸時代前期の画家。 慶長12年生まれ。狩野祖酉(そゆう)の長男。狩野孝信の娘婿,のち探幽の娘婿となる。東福門院の御用絵師をつとめ,代表作に聖衆来迎寺客殿の障壁画がある。明暦4年4月15日死去。52歳。通称は外記。号は素川。
狩野 尚信
江戸前期の画家。木挽町狩野家初代。京都生。孝信の次男、探幽の弟、安信の兄。初名は一信、のち家信、通称を主馬。薙髪して自適斎と号し、幕府の奥絵師となり、多くの障壁画を描く。山水画に優れ、情緒ある作品を残した。
中江 藤樹
近江国出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱は原(はじめ)、字は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した。
木庵 性瑫
1611-1684年。 中国、明の黄檗(おうばく)宗の僧。泉州の人。 師の隠元に続いて明暦元年(1655)に来日、宇治の黄檗山万福寺第2世を継いだ。 また多くの寺を創建。勅号は慧明国師。
里村 昌程
江戸時代前期の連歌師。 慶長17年生まれ。里村昌琢の子。寛永13年家督をつぎ,翌年から幕府につかえ,法橋(ほっきょう)。延宝元年まで宗匠をつとめた。名は景益。別号に非有庵。
狩野 安信
江戸時代の狩野派の絵師である。幼名は四郎二郎・源四郎、号は永真・牧心斎。狩野孝信の三男で、狩野探幽、狩野尚信の弟。狩野宗家の中橋狩野家の祖。英一蝶は弟子に当たる。
即非 如一
江戸時代前期中国の明から渡来した臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧。福建省福州府福清県の出身。俗姓は林氏。字は即非。
土佐 光起
江戸時代の土佐派を代表する絵師。和泉国堺出身。父は土佐光則。本姓は藤原、幼名は藤満丸。住吉如慶は父の門人(叔父説あり)。子は土佐光成、土佐光親。
菱川 師宣
江戸時代の画家。生年は寛永7年から8年(1630年 – 1631年)ともいわれる。享年64-65。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一枚の絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たした。初めは無記名で版本の挿絵を描いており、初作は寛文11年(1671年)刊行の噺本「私可多咄」(無款)であるとされ、翌寛文12年(1672年)、墨摺絵本「武家百人一首」(千葉市美術館所蔵)においてその名前(絵師 菱川吉兵衛)を明らかにした。その後、次第に人気を博し、墨摺絵入り本・絵本を数多く手がけた。「浮世百人美女」、天和2年(1682年)刊「浮世続」(国立国会図書館所蔵)、天和3年(1683年)刊「美人絵づくし」(ボストン美術館所蔵)などに市井の女たちを描写し評判高く、生涯において100種以上の絵本や50種以上の好色本に筆をとっている。