1698-1745年。
江戸中期の儒学者。
京都の人。宇野士朗の兄。
字は士新。通称は三平。
荻生徂徠の学問を学び、京都で初めて徂徠学を講じたが、後に離反。
著作に「論語考」「明霞先生遺稿」など。
松下 烏石
江戸時代中期の日本の書家である。 名は辰、字は君岳・神力・龍仲など。号は烏石の他に菽竇処士・青蘿主人・東海陳人・白玉斎など。修姓を葛として葛烏石・葛辰とも称した。江戸の人。 江戸古川に住んでいたが明和年間に京都に移り西本願寺の賓客として晩年を送る『消間印譜』、その他多数の法帖を刊行している。門弟に韓天寿などがいる。
三井 親和
江戸時代中期の日本の書家・篆刻家である。 字は孺鄕、号に竜湖・深川漁夫・万玉亭などがある。通称は孫兵衛。信濃国諏訪藩主諏訪忠晴の弟にあたる旗本諏訪盛條の家臣三井孫四郎之親(ゆきちか)の子。深川に住んだので深川親和とも称された。
立林 何帠
江戸時代中期の画家。名は立徳。号は何帠,金牛道人,喜雨斎。伝記は不明な点が多く,初め加賀の前田家の侍医を務め,のち江戸へ移住し,白井宗謙と改め,鶴岡逸民とも称した。作品に尾形光琳の「方祝」印と類似した印章を用いたため,光琳の弟子とされたこともあるが,元文3(1738)年に尾形乾山から光琳の模写した宗達扇面画を贈られているので,江戸で乾山に絵を習ったと考えられる。主要作品『佐野渡図』『松竹梅図』。
小栗 十洲
江戸時代中期-後期の儒者。
名は光胤。
小栗鶴皐(かくこう)の孫。
小栗常山の弟。
字名は萬年。
別号に痴僊居士。
銭 必東
江戸時代中期の画家,書家。 大坂の人。沈南蘋の画法の影響をうけ,花鳥人物画をよくした。 書は新興蒙所にまなび,「女蘿舘(じょらかん)消息」などの著作がある。 名は貞。字(あざな)は恒卿。
五十嵐 浚明
江戸時代中期の新潟の絵師、漢詩人。本姓は藤原、修姓は呉。諱は安信、後に浚明。字は方篤、後に方徳。号は思明、孤峰、穆翁、竹軒。江戸で狩野良信栄信に狩野派、京都で竹内式部に経学を学び、宇野明霞・片山北海・池大雅等と親交した。
松本 奉時
大坂の人。与謝蕪村(よさぶそん)の画風をまなび,蝦蟇をこのんでかいた。通称は周助。号は奉時道人。
宮崎 友禅
江戸前-中期の染物絵師。京都生。
のち金沢に移る。友禅染の祖。
画に巧みで、花鳥文様だけでなく、物語絵・歌絵等も能くした。
元文元年歿。
土佐 光芳
日本の江戸時代中期に活躍した土佐派の絵師。幼名は藤満丸。法名は常覚。名は「みつふさ」ともよむ。
長谷川 長春
江戸時代前期の浮世絵師。 京都の人。1681-88年のころに作画。吉田半兵衛とともに活躍した。
土佐 経隆
鎌倉時代の画家。 はじめ有房を名のる。土佐権守となり,のち土佐派の始祖といわれる。建長3年内裏の紫宸殿に賢聖障子をかく。絵所預。従五位下,中務大輔。
祇園 百合子
出自未詳。 祇園梶子の養女となり、養母が京都祇園に営んでいた茶店を継いだ。享保十二年(1727)、上洛中の江戸の武士徳山某との間に娘をもうける。 この子が町子、のち池大雅に嫁した玉瀾である。江戸へ帰る徳山某に同行を誘われるが断り、茶店を営みながら女手一つで娘を育てた
宅磨 松渓
宇野 士朗
1701-1732年。
江戸時代中期の儒者。
宇野明霞(めいか)の弟。
兄とあわせて平安の二宇先生とよばれた。
名は鑒。字ははじめ士茹。
通称は亀千代、兵介。
著作に「平安志」など。
秋山 玉山
江戸時代中期の漢学者。 名は定政、儀。字は子羽。 通称は半次、儀右衛門。 熊本藩士中山定勝の次男として豊後国鶴崎で生まれる。
吉益 東洞
江戸中期の医学者。広島の人。名は為則。万病一毒・親試実験を唱え、経験に基づき疾病の内的原因をつきとめることに努め、実験医学の道を開く。著「類聚方」「方極」「薬徴」など。
千代女
1703-1775年。
江戸中期の女流俳人。加賀の人。
各務支考(かがみしこう)・中川乙由(なかがわおつゆう)らに学んだ。
晩年には剃髪し、素園、千代尼。と号した。
句集「千代尼句集」「松の声」など。加賀の千代。
柳沢 淇園
江戸時代中期の武士、文人画家、漢詩人。服部南郭、祇園南海、彭城百川らとともに日本文人画の先駆とされる。 幼名は権之助、名ははじめ貞貴、元服後は里恭(さととも)と名乗る。後に中国風に修して柳里恭(りゅうりきょう)と名乗ることを好んだ。代々権太夫と称し、字は広美(こうび)もしくは公美、淇園と号し、ほかに竹渓、玉桂の別号がある。よく知られた淇園の号は、40歳頃から使用したと推測される。
住吉 広守
江戸時代中期の画家。 宝永2年生まれ。住吉広保(ひろやす)の次男。住吉具慶(ぐけい)の孫。住吉派。享保(きょうほう)19年幕府の御用絵師となる。朝鮮国王へおくる屏風(びょうぶ)などを制作。子がなく,弟子の板谷慶舟(けいしゅう)の子(広行)を養子とした。安永6年10月21日死去。73歳。江戸出身。通称は総次郎,内記。法名は賀慶,至全。
加藤 文麗
1706-1782年。 江戸時代中期の画家、藩士。 名は泰都、通称を織之助。 別号に予斎。 画を狩野周信に学び、谷文晁の最初の師として名高い。
浅井 図南
江戸時代中期の医者。名は政直、後に惟寅。通称は頼母。幹亭、篤敬斎とも号した。医師・浅井東軒(周迪、1672-1753)の子として生まれる。生まれは、京都とも、長州ともいう。幼名は冬至郎。祖父の浅井策庵も京で名の知られた医師だった
滝 鶴台
江戸中期の医師。長門(ながと)の人。名は長愷。通称、弥八。儒学を山県周南・服部南郭に学び、医学を山脇東洋らに学んだ。また、仏教・和歌・国史にも通じた。
熊代 熊斐
江戸時代中期の長崎で活躍した画家。江戸時代の南宋画の先駆者。沈南蘋の彩色花鳥画の技法を多くの門人に伝え国内に広めた。この一派は南蘋派として知られ、当時の画壇に大きな影響をもたらした。 本姓は神代(くましろ)氏。名は斐(あやる)、字を淇瞻(きせん)、号を繍江(しゅうこう)。通称は彦之進のちに甚左衛門。唐風に熊斐と名乗った。