1726-1783年。
江戸時代中期の書家。
江戸の人。
播磨安志藩主に仕える。
名は敬和。字は伯義。通称は源蔵。
月岡 雪鼎
江戸時代中期から後期にかけて活躍した浮世絵師。 姓は源、本姓は木田、名は昌信。俗称を馬淵丹下といい、字を大渓といった。号に、信天翁、月岡山人、露仁斎、錦童、桃漪など。近江国蒲生郡日野大谷村生まれ。大谷には「月岡山」という小高い丘があり、雪鼎はこの山の名称から「月岡」と号したと伝承がある
細合 半斎
1727-1803年。 江戸後期の儒者。伊勢生。 名は離、のち方明、字は麗玉、号に斗南・太乙眞人等。 初め徂徠学を唱えたが、のち清人孝證の説を唱える。
韓 天寿
1727-1795年。
江戸中期の書画家。伊勢松坂生。
通称は中川長四郎、天寿は名、字を大年、号は酔晋斎。松下烏石に文徴明風の書を学び、王羲之・王献之の書を研究して世に現れる。
池大雅、高芙蓉と親しく交遊する。
また、篆刻にも優れていた。
池野 玉瀾
江戸時代中期の画家。 文人 画家池大雅(いけのたいが)の妻。 柳沢淇園(きえん)、のち大雅にまなぶ。 山水の扇面画にすぐれる。祇園の茶店をうけつぎ、夫妻ともに奇行の逸話をおおくのこしている。 京都出身。本姓は徳山。名は町。別号に松風,遊可。
細井 平洲
江戸時代の儒学者。 本姓は紀氏。折衷学派。平洲または如来山人と号す、諱は徳民、通称は甚三郎。 字は世馨。 尾張国知多郡平島村出身。 弟子には寛政の三奇人として有名な高山彦九郎などがいる。 また、米沢藩藩校興譲館の学則には『紀徳民』とある。
小野 蘭山
江戸時代の大本草学者。名は識博(もとひろ)、通称は喜内、字は以文、号は蘭山、朽匏子。しばしば「日本のリンネ」と称される。京都出身。
三浦 樗良
江戸中期の俳人。志摩鳥羽の人。通称、勘兵衛。別号、無為庵など。伊勢山田、のち京都に住む。蕪村らと親交を結び、中興俳壇の代表的俳人となった。編著「我庵(わがいお)」、句集「樗良発句集」。
板谷 広当
日本の江戸時代中期に活躍した、江戸幕府の御用絵師。大和絵の一派・住吉派から別れた板谷派の初代。幼名は広度 (ひろのり)。通称は慶舟、のち桂舟。そのため板谷慶舟(桂舟)とも、名前と合わせて板谷慶舟(桂舟)広当とも呼ばれる。
中井 竹山
江戸時代中期の儒学者である。大坂の学問所 懐徳堂の四代目学主として全盛期を支える。中井甃庵の長男。中井履軒は実弟。中井蕉園は子。中井碩果、並河寒泉は孫。中井桐園(履軒の孫)は碩果の養子。中井木菟麻呂は桐園の子。 名を善太、元服後に積善と改名。字は子慶。号は竹山、同関子、渫翁、雪翁など。
曾我 蕭白
江戸時代中期の絵師。蛇足軒と自ら号した。高い水墨画の技術を誇る一方、観る者を驚かせる強烈な画風で奇想の絵師と評される。
本居 宣長
江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身である。
高 嵩谷
江戸後期の町絵師。江戸生。姓は高久、名は一雄、字は子盈、別号に楽只斎・屠竜翁等。佐脇嵩之の門人。代表作に江戸浅草寺観音堂の「源三位頼政鵺退治図」の絵額がある。
伊藤 東所
江戸時代中期-後期の儒者。 伊藤東涯の3男。7歳で父をうしない,叔父の伊藤蘭嵎(らんぐう)にまなぶ。寛延4年祖父仁斎のひらいた家塾古義堂をつぐ。古義学を広い階層にわたる門弟につたえ,父の遺稿の刊行につとめた。京都出身。名は善韶(よしつぐ)。字は忠蔵。著作に「詩解」「古義抄翼」など。
福原 五岳
1730-1799年。
江戸時代中期-後期の画家。
備後生。
名は元素、字は子絢、別号に玉峰、楽聖堂等。
京都へ出て池大雅の門に入り、のち大坂へ出て画風を広めた。
狩野 栄川
江戸時代中期の画家。 享保15年11月11日生まれ。狩野栄川古信の長男。狩野受川の養子となるが,養父の早世により2歳で木挽町をつぐ。江戸城や御所の障壁画,朝鮮贈呈屏風などの制作にたずさわる。法印。将軍徳川吉宗や家治の厚遇をうけ,奥絵師のなかで木挽町狩野家の地位を最上位に押しあげた。寛政2年8月16日死去。61歳。名は典信(みちのぶ)。別号に白玉斎。
久村 暁台
江戸後期の俳人。尾張生。姓は加藤、名は周挙、字は呉一、通称は平兵衛、別号に他朗・買夜・暮雨巷・龍門等。尾張徳川家の江戸詰として仕えた後、俳諧を蓮阿坊白尼に学び、その後独立して蕉風の復興に努めた。多くの弟子を得、東の大島蓼太と共に並び称され、横井也有・大島蓼太・与謝蕪村らと交わり、名古屋を中心に一大勢力を誇った。二条家から中興宗匠の称号を与えられた。『暁台七部集』等を編纂した。寛政4年(1792)歿、61才。
沢田 東江
江戸時代中期-後期の書家。 林鳳谷(はやしほうこく)に儒学を,高頤斎(こういさい)に書をまなぶ。のち王羲之らの書法を研究し,東江流をひらく。篆刻もよくした。江戸出身。名は鱗。字は文竜。通称は文治郎。別号に来禽堂(らいきんどう)など。著作に「書学筌」「書則」など。
井上 金峨
江戸中期の儒学者,折衷学派。江戸の人。名は立元。はじめ仁斎学・徂徠学を学ぶ。のちその末流の弊を覚え,一学説一学派にとらわれず,諸説を取捨選択して自得するという折衷の学を唱え,荻生徂徠以後の江戸の学風を一変させた。流麗達意の詩文でも知られ門人に石川滄浪(そうろう),亀田鵬斎,山本北山らがいる。
関 其寧
江戸時代中期-後期の書家。 書を関思恭(しきょう)にまなび,その養子となる。養父の跡をつぎ常陸土浦藩につかえた。本姓は落合。字は子永。通称は源蔵。号は南楼。
平沢 旭山
江戸時代中期の儒者。 36歳のとき江戸昌平坂の林家に入門,のち片山北海にまなぶ。文章家で,生涯に文章3000編をかいたという。 山城(京都府)出身。本姓は山内。名は元愷(げんがい)。 字は俤侯。通称は五助。別号に菟道山樵。 著作に「漫遊文草」「平沢旭山日録」など。
円山 応挙
江戸時代中期~後期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。 諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている
宋 紫山
江戸後期の画家。江戸生。父は宋紫石、子は紫岡。姓は楠本。名は白圭、字は君錫、別号は雪渓(二世)・雪湖(二世)・苕渓。画を父に学び、山水花鳥を能くする。文化2年(1805)歿、73才。
伴 蒿蹊
江戸時代後期の歌人・文筆家。名を資芳(すけよし)と称し、別号を閑田蘆と号した。生家は近江八幡出身の京都の商家で、8歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となった。18歳で家督を継ぎ家業に専念したが、36歳で家督を譲り隠居・剃髪し、その後は著述に専念した。著書『主従心得草』は近江商人の典型的な家訓、他に『閑田詠草』、『閑田耕筆』、『閑田次筆』など。